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SHOW-YA・寺田恵子が明かすプリプリとの本当の仲〜80年代バンドブームの実情

1985年にデビューして以来、女性ロックバンドの草分けとして活動してきたSHOW-YA。そんな彼女たちが30周年イヤー第1弾として男性ロックバンドのヒット曲のみを選曲した初カバーアルバムをリリース。その歌声も生き方もますますロックでパワフルなボーカル寺田恵子が、80年代バンドブーム時代の裏話や当時女性バンドの双璧だったプリンセス プリンセスとの関係など、いまだから話せるエピソードを男前に語ります!

プリプリへの対抗意識は、まったくなかった

――当時プリプリとSHOW-YAは仲が悪いと言われてましたが、実際はどうだったんですか?
寺田ないないないない。メディアが勝手に言ってただけ。あとファン同士の対立はよくあったらしくて「うちらは仲良いのに、ファンはケンカしてるね」って、プリプリのメンバーとはよく話してましたよ。プリプリも最初、違う名前でデビューしていて、自分たちの音楽をたくさんの人に聴いてもらいたいって思いでやっていたけど、芽が出ない時期があったわけで。そんななかで、お互い“女バンド”っていう同じ土俵に立ち、しかもジャンルが違うからこそ周りが注目してくれて女の子のムーブメントがきたから、対抗意識とかはまったくなかった。ただ、プリプリはガーッと一気に売れたので、“やっぱ世の中、可愛い女の子がいいのね”とは思いましたよ。怖い女はダメですか?って(笑)。

――SHOW-YAもハデで華やかなイメージがありましたが。
寺田いやいや、モテなかったよ〜(笑)。“プリプリは可愛くて、お前らは可愛くない”って、散々言われたから(笑)。やっぱりね、まだ20代前半の女子だから、可愛くないって言われ続けたら、本当にそうなのかな?ってなるし、お願いだから、ひとりぐらい可愛いって言ってよって、心のどっかで思いますよ。でも、うちらは5人で固まると、スキがなくて怖いらしいの。撮影とかでも“寺田さん、笑わないで睨んで”って言われるから、しかめっ面の写真ばっかりだし、そりゃ怖いよね(笑)。いま振り返るとあの頃、もっとスキを作って遊んだら良かったな〜って思うけど、当時はできなかった。女バンドをもっと見て欲しい、ハードロックをもっと日常に入っていく音楽にしたいって想いが強かったから、とにかく世間や男に負けちゃいけないってすっごい力が入っていて。しかも女バンドの先輩がいないから相談できる相手もいない。何があっても自分らで乗り越えなきゃいけないって必死だったんですよね。


――寄ってくる男がいても、なめんなよ、みたいな。
寺田“女、なめんなよ”ってね。もったいないことしたなぁ(笑)。でも、当時はまずはバンドとして認めてもらいたかったから、デビュー前なんかスカートも禁止していて。ステージから見えそうで見えないとか、そういうとこで話題になりたくないっていう意志があったのね。ま、でもデビューを機にミニスカは解禁にしましたけどね、使える武器は使おうと思って(笑)。でも基本的にはすごくマジメで週に6日は朝から晩までスタジオに入っていたから、全然遊んでない。とにかく演奏面で負けちゃ行けない、パワーで劣っちゃいけないって、相当がんばってましたよ。

――メンバー内で恋愛のもめ事とかなかったんですか?
寺田ないねぇ。音楽的なことで揉めても、恋愛沙汰は一切ない。しかも私は好きなタイプが超マニアックな好みだから、誰ともかぶらない(笑)。男バンドでカッコイイ人がいても、アウト・オブ・眼中で恋愛に発展しなかったんですよ。あとデビューして3年間、寮生活だったんだけど、フツー女が5人集まったらファンション雑誌や化粧品がたくさんあって、会話もどこの店のケーキがおいしいだの、いわゆるガールズトークをするじゃない?でもうちらは口を開くと、「ジューダス・プリースト(英国のヘヴィメタ・バンド)の新譜聴いた?」とか、そういう話ばっかり。

――硬派なロック少年みたいですね(笑)。
寺田年ごろの女なのに、恋愛の熱意が全部音楽に向いてちゃってたんでしょうね。リズム隊の2人なんか熱が入り過ぎると胸ぐら掴んで、取っ組み合いのケンカもしてたから(笑)。本当に仲がいいから、ケンカすると兄弟みたいに容赦がないんですよ。でもそれぐらい真剣だったんです。

何もかも抱え込んで重荷に――精神的に追い込まれて脱退も

――寺田さんは一度、SHOW-YAを脱退されてますが、ストイックになり過ぎたのが原因だった?
寺田そうね。アルバム制作から曲作りまで、寝る間も惜しんでやってたから。ツアーに出て帰ってきても、部屋を片付けてるとそれがリズムになっちゃうわけ。そうするとまた歌わずにいられない、書かずにいられないってなるから休めない。あと当時はアメリカ進出も考えていたから、英語もやらなきゃとか、何もかも抱え込んでそれが重荷になって、精神的に追い込まれていたんですよ。しかも何年も平均睡眠が3時間ぐらいなので、体もまいっちゃって。でもつねに神経はギンギンだから、ライブの後とか、興奮して眠れないわけですよ。かといって遊びに行くと次の日に声が出なくなったりするから、ずっとベッドの上で正座してるの、朝まで。ハデなことやってたけど、家の中はすっごい暗いっていう(笑)。

――アスリートですね(笑)。
寺田でもツラいって言うと、“女だから”って言われてしまうから言えない。それが続いたら、あるとき自分のなかで“ゼロ”っていう数字が離れなくなってしまって。で、その行き着いた答えが私にとって、SHOW-YAをやめるってことだったんですよ。

――でもSHOW-YAのすごいところは、寺田さんが抜けても解散しなかったことですよね。普通ボーカルが抜けたら、バンド存続は難しい。
寺田みんなSHOW-YAのメンバーってことに誇りを持ってたから。私が抜けても音楽を続けたいって気持ちが強かったんだと思いますよ。お互いをすごく尊敬し合っていたし、認め合ってもいたから。

――寺田さんもメンバーと接点を持ちながらソロとして復帰して。プリプリのメンバーとバンドを組んだりしてましたよね。
寺田当時もプリプリとは仲が良かったから、なんかしたいねって、ずっと言ってたんですよ。で、「NAONのYAON」っていう女だけのロックフェスではプリプリとSHOW-YAが衣装を交換して、お互いの曲をやったりもして。

――レアですねぇ。その後、寺田さんはSHOW-YAに戻るわけですが、5年かかってメンバーを説得したとか。
寺田恵子は信用がないって言われてたから(笑)。そりゃそうだよね、自分が起こした行動の結果だから仕方ない。だからどんだけ本気なのか見せるしないと思って1人ひとりを飲みに誘ったり、心と心が通じるまでジワジワ攻めました、5年かけて(笑)。で、最終的には認めてもらえたんだけど、それはもうメンバーのおかげ。みんなの懐の深さに感謝です。

――一度抜けたボーカルが戻って、再始動するって女性バンドじゃなくてもかなりレアケースですよね?
寺田それだけみんなSHOW-YAが好きだし、ここで生き抜こうって命を賭けてるんですよね。そういう意味で私はSHOW-YAは奇跡のバンドだと思ってるの。ひとりだけ結婚したけど、嫁にも行かず子供もいず、男にも振り回されず、自分たちの音楽を突き詰めた女バンドは多分、世界にいない。だからギネスに登録して後々は国に保護してもらおうかなと(笑)。

(文:若松正子/撮り下ろし写真:西田周平)

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