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デビュー50周年の南佳孝、語り継がれる名曲を1曲でも多く創作することが“永遠の目標”

 シンガーソングライターの南佳孝が、9月21日にデビュー50周年を迎える。世界的に注目されている日本のシティポップのパイオニアともいわれ、「モンロー・ウォーク」や「スローなブギにしてくれ」「スタンダード・ナンバー」など、若年層にも語り継がれるヒット曲も多く、ハスキーな彼のボーカルを愛するファンも多い。なかなか芽が出なかった70年代、ヒット多数の80年代、そしてライブ中心のそれ以降と、時代の変化の中で独自のスタンスで活動を続けてきた彼の50年を辿って話を聞いた。

デビュー50周年を迎える南佳孝 (C)oricon ME inc.

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■松本(隆)との出会いは運命的だった

――デビューは1973年に発売したアルバム『摩天楼のヒロイン』ですが、プロデュースが松本隆さんですね。まだ作詞家として世に出る前ですね。

【南佳孝】確かに松本隆プロデュースということだけで注目されるわけではなかったですね。実際売れませんでしたし(笑)。彼ははっぴいえんどのドラマーで詞も書いているという感じで、はっぴいえんどというバンドも、本当に知ってる人は知ってるというレベルだったと思うんですよね。でもやっぱり先端的なバンドで、日本語でロックをやるっていう。それまで誰もやっていなかったようなことをやっていて、しかも言葉がちゃんとしていた。松本とは同い年ですし、当時は「とりあえず同い年の2人で面白いと思うことをやってみようよ」という感じでしたね(笑)。

――フォーク全盛時代にハードボイルドな都会を描いた映画のようなコンセプトアルバムは新しすぎたのかもしれません。

【南佳孝】そうですね。ヒーローサイドとヒロインサイドを作って男と女の主人公の物語を展開していく形で、音楽から映像が見えるようなものにしたいというのが僕たちの考えでしたね。本当に初めてのアルバム制作でしたから右も左もわからずにメーカーとの交渉等も含めすべて松本に任せっきりで、僕は曲を書いて歌うことに専念できたので助かりました。『リブヤング』(当時のフジテレビの若者向け情報番組)のコンテストで3位になって、アルバムを出してやると言われてたんですが全然話が進まなくて、だったらデモテープを作って自分でいろいろなレコード会社を回ろうとしていた矢先でしたから、まさに渡りに船でしたよね。松本との出会いは運命的だったと思います。

■活動の転機は「モンロー・ウォーク」

――少し子どもの頃の音楽遍歴もうかがいたいのですが。

【南佳孝】中学時代はビートルズいいよねって言っている音楽仲間がいたくらいで特に活動はしてないですね。洋楽ばっかり聞いてましたね。トップ40聞いてね。高校でバンド作ろうって話になって最初はドラムをやってました。大学に入った頃からジャズっぽいものが好きになってギターにはまってましたね。

――歌はそのころから歌っていたんですか?

【南佳孝】歌はあまりやってなかったんだけど…。高校の時はドラムたたきながら、「南、歌えよ」って言われて歌ったりとかはしてたけど、大学時代のバンドには女性ボーカルがいたんで僕はバンドの一員のギターでしたよ。でも、夜の仕事でキャバレーとかでハコバンのバイトをやっていて、2つのバンドを兼任していて、そのうちのエレキバンドの方では歌ったりしてましたね。

――歌い方は、今と変わらない感じですか?

【南佳孝】どうだったんだろうね(笑)。覚えてないな。この間、佐藤竹善と話していて、「どうやってボーカルの勉強したの」って聞いたら、「好きなアーティストのレコードを何回も何回も繰り返し聞いて、それこそブレスからこぶしから完璧にコピーしてましたよ」って言ってました。それは僕も同じでしたね。

――どんな人の歌をコピーしていたんですか?

【南佳孝】当時は、ジョン・レノン、スティービー・ワンダー、ナット・キング・コール、ハリー・べラフォンテ、それからジュリー・ロンドンって感じかな。プロになってからもジョアン・ジルベルトとか、張らずにささやくように歌う、軽くリズムに乗せる、でも伝わる人たちの歌を相当勉強しましたね。

――転機になったのは、やはり1979年の「モンロー・ウォーク」のヒットですか。

【南佳孝】そうですね。CMの仕事なんかもぼちぼちいただくようになっていたんですけど、あの「モンロー・ウォーク」はCMのコンペに出すために作った曲なんです。でも結局採用されずに返ってきて、でも当時の音楽プロデューサーの高久光雄さんが「この曲いいんじゃない」って言ってくれてレコーディングされた曲ですね。曲先で作っていて、作詞をしてくれた来生えつこさんは高久さんが見つけてきたんですよ。高久さんははっぴいえんどの前身のエイプリル・フールっていうバンドのディレクターでもあった人でした。

――1980年には郷ひろみさんが「セクシー・ユー」と改題してこの曲を発売して大ヒットになりましたが、当時はどんな思いでしたか。

【南佳孝】僕はもともとソングライター志向の部分もあったんで、これはうれしかったですね。いつも、もっと誰か自分の曲を歌ってくれないかなって思ってましたから(笑)。僕の永遠の目標はスタンダードナンバーを1曲でも多く作ることなんです。何十年たってもいい曲だって言われてたくさんの人が歌ってくれるような曲を1曲でも多く作りたいというのはデビューの頃から言ってました。歌詞が良くてメロディーが良くてアレンジが良ければ絶対に残ると思ってますから、そこは妥協なくやっていますね。

■角川(春樹)さんぐらい凄い映画プロデューサーはいない

――詞に関してはデビュー2作目の1976年発売のアルバム『忘れられた夏』で全曲作詞もやっています。でも、その後は作曲と歌に専念している印象があります。

【南佳孝】『摩天楼のヒロイン』がコンセプトアルバムだったんで、南佳孝ってシンガーソングライターはどんな奴なんだっていう挨拶代わりの作品として『忘れられた夏』を発売したんです。その後は1曲1曲をスタンダードをめざす作品を集めたアルバムとして『SOUTH OF THE BORDER』『SPEAK LOW』と続いていくんですね。もちろん自分で詞も書いてみたりするんですが、詩を書くのに長けている人が世の中にはたくさんいるんだなって思いますね。歌詞は未だに難しいと思ってますね。

――その後、「スローなブギにしてくれ」が角川映画の主題歌として大ヒットします。

【南佳孝】当時、角川映画の角川春樹社長が僕のデビューアルバム『摩天楼のヒロイン』を聞いてくれてたらしいんです。松本から「聞いてくれてるらしいぞ」って言われても半信半疑だったんだけど。でもそれが本当で、主題歌の依頼があったんです。あの頃は角川映画が破竹の勢いだったじゃないですか。本と映画をマッチングさせて、15秒CMスポットを大量に打って映画、本、音楽のすべてを大ヒットさせてしまうというやり方でね。いろいろ意見はあるかもしれないけれど、角川さんぐらい凄い映画プロデューサーはいないと僕は思うね。角川さんに「本をどのくらい読むんですか?」って聞いたことがあって、角川さんが「大体10冊かな、1日で」と答えが返ってきた時にはびっくりしたね。「どうやって読むんですか」って聞いたら「ななめ読み! 読まなきゃいけないんだよ」って(笑)。「映画にとって一番大事なのはなんですか」って聞いたら、「脚本! 1に脚本、2に脚本」ってね、すごい人だったな。その角川さんが僕の音楽を聴いててくれているってことでね。当時原作の片岡義男さんのラジオ番組にもよく呼ばれてて、そんな縁もひょっとすると影響してたのかもしれませんね。あの曲も曲先で、松本の詞です。自分がやるべきと思った時の松本って真剣度が違うんですよ。あの曲は歌詞がとにかくいい。

――最初の“ウオンチュー”が印象に残りますね。

【南佳孝】この曲を作った時にデモ段階でこの言葉を言ってたんじゃないかってことも言われたりするんだけど、僕はあくまでもスキャットでデモを録音してますから。あれはあの言葉を拾い上げた松本の勝利ですよ。

■カバーに挑戦し、シンガーとして目覚める

――ここで自分自身も大きくクローズアップされるわけですが、この大ヒットを経て自分の中で変わったことってありますか。

【南佳孝】そうですね…。町を歩くのが面倒になりましたね(笑)。ああいうヒットの時ってたくさんの人が寄ってきますよね。でも、そういう人っていなくなるのも早い。変わらずに応援してくれる人は、どんな時でも変わらないということを、あの辺りから実感することになりましたね。

――1984年には「スタンダード・ナンバー」を薬師丸ひろ子さんが映画『メイン・テーマ』の主題歌「メイン・テーマ」として歌って大ヒットしますが、それ以降の1980年代後半からは、マイペースでの活動にシフトしているように思います。

【南佳孝】その通りですね。ということはヒット曲がないんです(笑)。ヒットは出したかったんですけど残念ながら出なかったというのが本音です。ヒットを狙って少しインパクトが強めのメロディー展開にしたりもして、これはイイんじゃないかって思ってもヒットしない、しかも自分のボーカルがマッチしていないんじゃないかと感じる、難しいところでしたし、ずいぶん悩みもしました。

――どこかでそれを乗り越えたんで今があるのではないかと思いますが。

【南佳孝】50歳の時ですかね。レコード会社をビクターに移って何枚か出させてもらったんですけれど、その中でジャズやボサノバのカバーをやったんですよ。そこで意識がずいぶん変わりましたね。カバーアルバムを出したのは、2000年頃にジャズが来てるなってのを感じてて、僕はわりと先読みのセンスがあるんです(笑)。その時に、オリジナルにこだわってヒット曲を出そうとすることばかりが重要ではない、こういうアプローチも面白いなと感じてから視野が広がった気がしますね。シンガーとして目覚めたというかね…。本音で言えばね、今でもヒットは出したいんですけどね(笑)。

――今はストリーミング配信が音楽ビジネスの中心になっていますが、音楽のユーザーへの到達手段の変化をどう思いますか?

【南佳孝】あまり考えないですね。どういう手段でユーザーに届くかは問題ではないですね。ですから、僕としてはYouTubeで発信していく、そして興味をもった人にはライブに来てもらうというやり方もありだと思います。最近自分自身もYouTubeをよく見ているんです。音楽だけじゃなくて、料理の作り方とか、絵の描き方とか。そこで自分自身が感じたのは、音楽を届けるのにもこれはアリかなって。例えば、僕が絵を描いているシーンを上から定点カメラで押さえて、その動画に僕の曲が流れているとかね。料理を作っている動画のバックで流れていてもいいし。そうやって今の時代に合ったやり方で音楽を広めていくということも、考えないといけないですね。

――9月24日には50周年記念の『南佳孝フェス』も予定されていますね。

【南佳孝】僕自身の有名どころの曲を中心に50年を振り返るとともに、(太田)裕美ちゃん、(尾崎)亜美ちゃん、杉山(清貴)くんらの仲間にもゲストとして来てもらって有名どころの曲を歌ってもらおうかと考えています。また松本(隆)にも来てもらってトークでふり返ってみようかなと。楽しいライブになると思います。自分としては今ライブが面白いですね。ライブには嘘がないですから。

――それでは最後になりますが、今後の活動についてはどう考えますか。

【南佳孝】8月15日、終戦の日の朝、突然、10年後の83歳で引退してもいいかな、と思ったんです。でも、その2日後くらいに、朝起きた時に、やめ時は自分で勝手に決めない方がいいんじゃないか、自分のペースで死ぬまでやっていく方がいいんじゃないかって思い直したばかりです(笑)。ポール・マッカートニーにしてもリンゴ・スターにしても、ここに来てすごく精力的にステージやってるじゃないですか。彼らは80歳超えてますよ。お金のためじゃないんですよね。たぶん生きているという実感があるんだと思います。その感覚はわかりますね。やっぱりライブやってると楽しいからね。上(天)の方から、そろそろいいよ、って言ってくれる時が来ると思うんですよ。それまで続けようと思います(笑)。

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