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【インタビュー】五輪真弓70年代のライブ名盤ハイレゾ化 音楽シーンに影響を与えた先駆者が放つ圧倒的熱量

 1972年に「少女」(シングル・アルバム同時発売)でデビューした、日本のシンガー・ソングライターの先駆者、五輪真弓。デビュー50周年を迎え、1970年代に発表された名盤の数々が、ソニーが開発した高品質CD Blu-spec CD2で今年1月より続々と発売され、ハイレゾ配信も開始されている。50周年を締めくくる企画として3月22日に発売されたのが、初期のソウルフルな歌声も楽しめる、70年代の音楽ファンに圧倒的支持を得る3作のライブ・アルバム『冬ざれた街/五輪真弓LIVE』『本当のことを言えば』「The SHOW-Best Concert Album '75』である。この機に、五輪真弓自身が、50年に及ぶライブ・キャリアを振り返り、ライブ・ステージへの思い、幅広い音楽性の源泉、名だたるミュージシャンとの邂逅、そして80年代以降のアジア諸国での公演などを、独占インタビューで余すところなく語ってくれた。

50周年を迎えた五輪真弓

50周年を迎えた五輪真弓

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■CBS・ソニー内に個人レーベル 豪華な参加ミュージシャン すべてが異例ずくめのデビュー

――アマチュア時代、銀座でギター弾き語りのアルバイトや、渋谷のライブハウス・ジァンジァン、あるいは米軍キャンプなどで歌っていたそうですが、その頃のレパートリーはどういったものでしたか。

 まだオリジナルの曲がなかったので、外国の曲を歌っていましたね。ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」や、エルトン・ジョンの曲などです。「メドガー・エバースの子守唄(黒い子守唄)は、人種差別をテーマにした物語で、そのドラマが胸に響いたので、レパートリーにしていました。米軍キャンプでは、彼らが好むカントリー&ウエスタンの曲や「テネシーワルツ」などを歌っていました。デビュー直前には、ニッポン放送の『フォーク・ビレッジ』をはじめフォーク系の公開放送番組によく出演したり、吉田拓郎さん、井上陽水さん、赤い鳥などのコンサートに、ゲスト出演したりして歌っていました。

――1972年に「少女」でデビューした際は、周囲にどのように受け止められていたのでしょうか。

 当時、私の作る歌は、ポップスでもなく、フォークでもない、ジャンルがないような歌でしたので、新しい感覚で受け止められていたかもしれません。

写真左から デビューシングル「少女」、デビュー当時の様子

写真左から デビューシングル「少女」、デビュー当時の様子

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――最初のライブ・アルバムが、74年に発表された『冬ざれた街』です。渋谷ジァンジァンでのステージを録音したものですが、この時の演奏メンバーは村上“ポンタ”秀一さん、石川鷹彦さん、大村憲司さん、高水健司さん、深町純さんです。日本の音楽シーンを支えてきたそうそうたるミュージシャンの方々ですが、彼らとは当時から交流があったのでしょうか。

 村上さん、高水さん、大村さんの3人は大阪の人たちで、彼らが赤い鳥に参加していた時に知り合いました。赤い鳥が解散した後、今度は私のバックをやってもらうことになり、それが東京に出て彼らが活動する最初のきっかけになったようです。赤い鳥は素晴らしいグループで、3人の演奏もボリュームがあり、それぞれが音の隙間を埋めるような形で、非常にいいプレイをしていると思います。

――深町さんについては?

 当時、TBSの昼のテレビ小説で、佐藤愛子さんの半生を描いた『愛子』というドラマがあったのですが、その主題歌を、私の詞に深町さんが曲をつけ、私が歌ったのです。それがきっかけで知り合いました。深町さんはピアノのタッチが強く、当時エルトン・ジョンが好きでよくコピーされていました。非常に繊細なピアニストでしたね。

――このアルバムでは先ほどお話されたアマチュア時代のレパートリーも収録されています。

 そうですね。歌い始めた頃から馴染んでいた曲は、この時期、必ずライブではやっていました。

――2枚目のライブ・アルバム『本当のことを言えば』(75年)では、ザ・セクションのリーランド・スカラー、クレイグ・ドーギーが参加しています。

 『時をみつめて』(74年)というアルバムを作りにロサンゼルスに行き、その時に参加してくれたのがザ・セクションのメンバーでした。この際だから日本に招いて、レコードの雰囲気を再現するようなコンサートをやってみようという話になり、実現したライブです。あの時は彼らの音、あのベースのプレイを生で聴きたいというジャズ系のファンの方も多く来場されていました。

渋谷ジァンジァンにてセカンドライブの収録

渋谷ジァンジァンにてセカンドライブの収録

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――3枚目のライブ・アルバム『THE SHOW Best Concert Album '75』(75年)ではまた、雰囲気がガラリと変わります。

 中野サンプラザで行ったライブですが、この時も、ロサンゼルスで一緒に仕事をしたデヴィッド・キャンベルのほか、ローレン・ニューカークを招きました。この時、初めてアレンジャー(デヴィッド・キャンベル)を立ててライブを行ったんです。

――スティーヴィー・ワンダーポール・マッカートニーのカバーも歌われていますね。

 大編成を組んだので、当時私が好んでいた曲から、この編成に合う曲を選びました。「アカシアの雨がやむとき」は、日本の歌の中では一番好きだった曲で、特に詞が好きでした。テーマが“THE SHOW”で、いろいろな歌を歌うのが前提でしたから、じゃあこの曲も入れてみよう、と。

■自分の音楽を確立したい フランスでのレコーディング体験

――77年にはパリのオランピア劇場で、アダモのコンサートに招かれていますね。

 これは急に決まったんです。フランスでアルバム作りをしている時に、アダモ(サルバトーレ・アダモ)が隣のスタジオでレコーディングをしていて、彼は日本に縁のある方なので、興味を持たれたようで訪ねてきてくださいました。そこで私の曲を聴きながら「近々、オランピア劇場でロングランのコンサートをやるので、ゲストで出てくれないか?」と打診され、快諾しました。オランピア劇場ってビートルズがやった場所ですから、当日は彼らを思い浮かべながらステージに立ちました。

――その時に歌われた曲は?

「冬ざれた街」のフランス語版と、アダモが作ってくれた「清い流れのように」をデュエットしました。でも、フランス語で歌ったので、私としてはあまり達成感がなくて(笑)。やはり日本語で歌いたかったなあ…と今になっては思います。今の時代であれば日本語でも十分受け入れられると思うのですが、当時はまだ、どこの国の言葉だ? と言われそうでしたから。

サルバトーレ・アダモとオランピア劇場(仏パリ)で共演

サルバトーレ・アダモとオランピア劇場(仏パリ)で共演

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――この時期はフランスのCBSでアルバムを出したり、新しい文化を取り入れたりと、活動の方向性が少しずつ変わっていった時期なのでしょうか。

 そうですね。これからの自分の音楽を確立していくために、フランスという素材は十分活かせると思い、それからしばらく、フランスでレコーディングをしました。

――帰国後(77年)からリサイタルを渋谷のPARCO劇場でスタートさせています(〜81年まで毎年実施)。これはどんな形のステージでしたか。

『ナイトショー』というタイトルで、夜の9時から始まるステージでした。3回目(79年)あたりから三宅一生さんの衣装を着てファッション性を打ち出し、ビジュアル面でも挑戦的なアプローチを行いました。この頃は自分自身、もう少し能動的になろうと思っていましたから。それまではあまり自分を表に出さないというか、控えめな音楽活動だったので、ひとつここで派手さも見せていこうという形です。

ファッション性を打ち出した渋谷PARCO劇場リサイタルのパンフレット

ファッション性を打ち出した渋谷PARCO劇場リサイタルのパンフレット

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■ジャンルの中に閉じ込められるのが嫌い 路線変更から生まれた「恋人よ」の大ヒット

――リサイタルを始めたあたりから曲調も変わりましたね。初期から聴いていて、「さよならだけは言わないで」(78年)には驚かされました。

 私もびっくりしたんですよ(笑)。当時はCBSソニーの中曽根皓二さんというディレクターとタッグを組んで、新しい方向性を出していこうとしていた時期で、新曲のデモを何曲かカセットテープに入れて渡したところ、彼が選んできたのが「さよならだけは言わないで」でした。それまでとはあまりにも違う傾向の曲だったので、冒険ではありましたが、私も思い切ってやりました。

――メロディーも詞も歌謡曲に近い印象です。

 確かにそうでしたね。それまで私はフォークとかニュー・ミュージックの枠に入っていたけれど、実はジャンルの中に閉じ込められるのが嫌いで、その立ち位置に偏りたくない、抜け出したいと思って、あの曲を作ったんです。たぶん中曽根さんは、この曲は売れると思われたのでしょう。私もそれを望んでいたところがあり、それまであまりしてこなかったテレビの歌番組にも積極的に出演するようになりました。

――その路線の集大成的な作品が、80年に発売された「恋人よ」ですが、当初はシングルB面の予定だったとか。

 そうです。いざレコーディングしてみたら、出来が良かったのでA面になりました。船山基紀さんのアレンジが素晴らしくて。好きなようにやっていいと言われたそうで、あのような仕上がりになったのですが、「初めて注文通りにやらずに済んだ」とおっしゃっていました(笑)。船山さんは沢田研二さんのアレンジなどもされていて、非常に引き出しの多い方です。売れ線の曲はもちろんのこと、芸術的なアレンジもなさる。私の作品では「時の流れに」や「Wind and Roses」のアレンジは非常に素晴らしいと思っています。

写真左から 大きな方向転換となった「さよならだけは言わないで」、大ヒットした「恋人よ」

写真左から 大きな方向転換となった「さよならだけは言わないで」、大ヒットした「恋人よ」

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――ところで、五輪さんは作詞と作曲、どちらを先に作られるのですか。

 いつも詞が先でしたが、同時進行もあります。「恋人よ」は詞が先で、すぐにできました。私は、自分が何を訴えたいか、そこから作品づくりが始まるので、心情を言葉で表したものが最初にないと、具体的な曲ができないのです。

――言葉を大切にされる五輪さんならではだと思います。特に「冬ざれた街」「酒酔草」など、イメージを喚起させる独特の言葉選びも印象深いですが、あれはどういう発想で生まれてくるのでしょうか。

 自分でもよくわからないんですが、面白い言葉を思いつくと、すぐに使っちゃうんです。言葉を作るのが好き、というか、子どもが言葉遊びをする感覚に近いのかな。

■80年代、アジア諸国に広がった五輪真弓の歌 源流はつながっていると実感

――翌82年には香港のスタジアムで8000人を動員するコンサートを開催しています。今と違い、当時、海外でライブを行うアーティストは少なかったと思います。

「恋人よ」がヒットして、NHKの『紅白歌合戦』にも出演して、「残り火」や「一葉舟」「恋愛ともだち」などを香港のシンガーがカバーしたこともあり、すごく人気が高まったんです。当日は雨でしたが、お客さんのノリが凄くて、大歓声で足踏みされて、日本のお客さんとは全然違っていました。もう「熱烈歓迎」の言葉そのままでしたね。

――日本人の作った楽曲が、アジア諸国でも愛される現象をどう受け止められましたか。

 香港の港で夜景を見ていた時に、自分の曲が有線放送で流れてきたことがありました。それが、目の前の風景にぴったりと合うんですよ。私の作る曲もアジアの国々の人たちの感性と共通点があったのだな、とその時強く感じました。

香港クイーンエリザベスホールでのコンサート

香港クイーンエリザベスホールでのコンサート

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――86年にはインドネシアのジャカルタでもコンサートを開催しています、五輪さんの「心の友」が広まり、第2の国歌と呼ばれるほど愛されたことが背景にあるそうですね。

 「心の友」は、82年の『潮騒』というアルバムに入っていた曲で、私は地味な曲だと思っていたので、まさか? と驚きました。現地の方からは、メロディーがきれいで、タイトルが親しみやすく覚えやすいから、と聞きました。ジャカルタのステージは昼夜2回でしたが、皆さん静かに、聴き入っているという印象でしたね。とても礼儀正しく、日本人に近い反応でした。インドネシアやマレーシア、台湾のお客さんと日本のお客さんは似ていますね。自分の曲はもうトラディショナルだと思っているので、アジアの源流みたいなところでつながっているのだな、と実感できました。

2015年9月、ジャカルタジャパン祭りで「心の友」を現地のアーティストと歌唱 交流は今も続いている

2015年9月、ジャカルタジャパン祭りで「心の友」を現地のアーティストと歌唱 交流は今も続いている

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■ライブは生き物 まだ歌いたいという気持ちが残っている

――その後も海外公演や、ツアーを定期的に行われていましたが、96年2月のツアー以降は、コンサート活動を休止し、2003年に7年ぶりに復帰されます。どういう心境の変化があったのでしょうか。

 子育てもあり、家庭を少し大事にしようということで、お休みしていました。その間、禁断症状のようなものは出なかったので、私も休みたい気持ちがあったのだと思います。7年ぶりの六本木スイート・ベイジル(STB139 スイートベイジル)でのライブは、それこそ重い腰を上げて、もう一度やってみようか、という思いでした。その後、新日本フィルハーモニー交響楽団と組んでシンフォニックのコンサートをやりましたが、あの時は、自分が音楽をやっているんだな、という実感がありましたね。

――キャリア50年を超える五輪さんの音楽活動の中で、ライブ・ステージというのはどのようなものでしたか。

 ライブは生き物ですから、お客さんとの関係性の中で歌が育っていくんです。予測がつかないことも多いですが、それも含めて本当に楽しいですね。歌詞を間違えても、それはそれでいいと思うんですよ(笑)。今はもう、ほとんどライブ活動はしていませんが、たまに夢の中で自分が歌っている姿を見ることがあって、まだ私は歌いたい、という気持ちが残っているんだなと思いますね。

文・馬飼野元宏

2023年3月22日発売 各1980円(税込)

『冬ざれた街/五輪真弓LIVE』

『冬ざれた街/五輪真弓LIVE』

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『冬ざれた街/五輪真弓LIVE』(MHCL-30761)
渋谷ジァンジァンのライブ録音アルバム。バックミュージシャンに石川鷹彦(A・Gr)、村上 “ポンタ” 秀一(Dr)、深町純(Key)、大村憲司(E・Gr)などが参加/1974年3月発売

『本当のことを言えば』

『本当のことを言えば』

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『本当のことを言えば』(MHCL-30762)
ティンパンアレイの林立夫・ザ・セクションのリーランド・スカラー、クレイグ・ドーギーやラリー・カールトン、大村憲司、岡村健らが参加したライブ・アルバム/オリジナル:1975年3月発売

『The SHOW-Best Concert Album'75』

『The SHOW-Best Concert Album'75』

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『The SHOW-Best Concert Album'75』(MHCL-30763)
1975年に中野サンプラザで行われたライブを収録。洋楽カバーの他、自作曲のメドレー、「アカシアの雨が止む時」などを収録。石川鷹彦(A・Gr)、村上 “ポンタ” 秀一(Dr)、ローレン・ニューカーク(Key)/オリジナル:1975年12月発売

■五輪真弓(いつわ・まゆみ)Profile
1971年、邦楽に進出したCBS・ソニー。翌年の72年、異例のCBS・ソニー内に個人レーベル「UMI」を設立し、鮮烈なデビューを飾った五輪真弓。CBS・ソニーが設立された1971年同年に、デビューに向けたプロジェクトがスタート。アメリカ・ロサンゼルスで2ヶ月にわたるレコーディングを開始。そのレコーディングにはキャロル・キング、チャールズ・ラーキー、デヴィッド・キャンベルなどアメリカを代表する錚々たるアーティストが参加。いまでこそ珍しくない海外レコーディングを成功させた日本人アーティストの先駆者であり、設立当初のCBS・ソニーが満を持して日本の邦楽界に切り込み、社をあげてどれほど五輪真弓のデビューを重視していたかがうかがい知れる。そこから50年、45枚のシングル、53枚のアルバム(ベスト盤・ライブ盤含む)を発表し、まさにソニーミュージックとともに歩みソニーミュージックを代表するアーティストとして今もなお活動中で、所属する日本人シンガー・ソングライターとしては最も長い在籍歴となる。

■五輪真弓50周年アニバーサリーサイト
https://www.110107.com/s/oto/page/mayumi_itsuwa50th?ima=4656

■MAYUMI ITSUWA 70’s Album All Titles Release スペシャルサイト
https://www.110107.com/s/oto/page/mayumi_itsuwa_70s

■五輪真弓50周年Podcast
https://open.spotify.com/show/5Zb1tEFTviTtcEx634r0L6?si=266adebfb3884dce

■五輪真弓デビュー50周年アニバーサリー公式アカウント
https://twitter.com/itsuwamayumi50

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