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伍代夏子、波乱万丈の芸能活動40年 デビューからの軌跡といっそう深まる演歌への想い

 今年で芸能活動40周年を迎える伍代夏子。ソニー演歌部門の人気歌手として活躍をしてきた彼女だが、歌手としての歩みは決して平坦ではなかった。3度名前を変えて、4度目の伍代夏子として成功するまでのエピソードや、杉良太郎との結婚でひと回り強くなったこと、病を得てよりいっそう深まる演歌への想いなど、伍代夏子のこれまでの道のりとこれからの展望を聞いた。

芸能活動40年を迎えた伍代夏子

芸能活動40年を迎えた伍代夏子

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■演歌以外の歌に惹かれなかった子ども時代

――物心ついたときから「自分は演歌歌手になる」と思っていたそうですが。

 父母が演歌好きだったことに加え、実家が東京・代々木八幡で魚屋を営んでいたこともあり、祖母の口癖が「(美空)ひばりさんだって魚屋だったんだから、お前も頑張れば演歌歌手になれる」で、その影響も大きかったと思います。10円玉や飴玉で釣られて家族や店のお客さんの前で歌わされていたみたいですが、4歳くらいから一切歌わなくなったそうです。恥ずかしいのと、何かもらって歌うのが屈辱的だったんでしょうか。そんな頑固なところがありましたね、笑ってと言われても絶対笑わなかったし(笑)。

――演歌のどんなところに惹かれたのでしょうか。

 演歌以外の歌で鳥肌が立ったことがないんですよ。美空ひばりさん、藤圭子さん、八代亜紀さん、都はるみさん…といった上手な方たちの歌を聴くと、ぞわぞわっとなっていました。その年頃の女の子としては変わっていましたから、周りにはあまり言わなかったですね。中学生の頃、オーディション番組の『スター誕生!』(日本テレビ系)が人気で、歌手にはなりたい気持ちは強かったけれど、落ちたら恥ずかしいという思いがあって、応募ハガキを書いてもなかなかポストに投函できず、中学3年間を過ごしました。

――そんな恥ずかしがり屋の少女が、歌手デビューすることになった経緯は?

 高校1年の春でした。渋谷の公園通りを歩いていたら、怪しいおじさんがきれいなお姉さんたちに名刺を手渡しているのに遭遇して、「スカウトされたら歌手になれるかも」と思ったんです。悔しいことに見向きもしてくれないから、友達と一緒にその人の前を何度も行ったり来たりして。日も暮れる頃、しぶしぶ渡された名刺が有名な老舗モデルクラブでした。無理矢理スカウトさせたんですね(笑)。何かの足がかりになるかもしれないと思い所属することにしました。ちょうど会社が、歌手を育てようと考えた時期でもあったので、「歌のレッスンがしたい」と申し出てボイストレーニングに通うことになりました。その先生が高田みづえさんにも教えていた方で、そこから、歌手として最初に所属した事務所の社長につながって、デビューが決まりました。

■波乱含みのデビューにめげず4度目の名前「伍代夏子」で花開く

――1982年、星ひろみという芸名で念願のデビューとなりました。

 デビューすれば次の日からテレビやラジオの仕事がたくさん入ってくると思うじゃないですか。ところが私が入った事務所はいわゆる「ハコ屋」と呼ばれる、キャバレーなどのお店に歌手を手配する営業だけの会社で、「とんだ所に来ちゃったな」と思いました。4ヶ月経ったある日、事務所に行ったらもぬけの殻。倉庫には私のレコードが山積みにされていて、夜逃げ同然でいなくなっちゃったんです。驚きましたけど正直ホッとした気持ちもあって。その後、事務所のお茶くみや電話番、総務のお手伝いをする傍ら、レッスンに通って次のデビューを待ちました。3年ほどそういう生活を送って、85年に芸名を加川有希に変えて、元横浜大洋ホエールズの平松政次さんとのデュエット曲「夜明けまでヨコハマ」を発売したんです。

――その後、芸名を本名の中川輝美に戻し、その翌年にはCBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックレコーズ)に移籍して伍代夏子に。

 ポップス路線だったので、「次こそ着物で演歌を歌いたい」と事務所に頼んだところ、「心機一転、名前を変えよう」となって。加川有希の時は字画を調べるなど、ずい分考えて名前を付けたのに結局上手くいかなかったので、面倒くさくなっちゃって本名でいいや、って(笑)。ちょうどセンチュリーレコードとの契約が切れる時期だったので、その時のマネージャーに「もう少し販売網が広いレコード会社に行きましょう」と言われ、CBS・ソニーにお世話になることになりました。藤あや子さんもデビューする頃で、「同い年でちょうどいいじゃない」って、若松(宗雄)さんの戦略にはまった感じです。

――伍代夏子としてのデビュー作「戻り川」(87年9月発売)が、いきなりのスマッシュヒット。4度目の改名で風が吹いてきました。

 「戻り川」は当初、手売りではけっこう売れていたんですが、なかなかオリコンチャートにその成果が表れなかったんですよね。マネージャーが人気TV番組のプロデューサーに売り込みに行くと、「チャートに上がってこなければ番組に出せない」って言われたそうです。たくさんの売り込みがあるので、断る口実だったんでしょうけど。そこで、レコード店へのキャンペーンに力を入れることにしました。以前、加川有希や中川輝美で回ったレコード店に行くと、「昨年キャンペーンで来た子が違う名前になって来ましたよ」ってお客さんを呼んで応援してくれて。これまでの活動の下地があったからこそ、歌も覚えてもらえて徐々に売れ行きに火がついていったんだと思うんですよね。テレビ出演が増えたこともあり、翌年の夏あたりからセールスに拍車がかかって、その年の暮に「全日本有線放送大賞」と「日本有線大賞」の最優秀新人賞をダブル受賞させていただくことができました。

――そして、3作目の「忍ぶ雨」(90年)が大ヒット、その年の『NHK紅白歌合戦』に初出場しました。

 実家があった商店街の端から端まで「祝!NHK紅白歌合戦初出場」の横断幕がかかって、商店街をあげて喜んでくれました。実家の店先に、新装開店のパチンコ屋みたいな大きなスタンド花がいくつも並んだのを覚えています。

■俳優・杉良太郎と結婚して福祉に携わる 人の噂を気にしなくなった

――94年には新宿コマ劇場で初座長公演を開催し、その後も、毎年コンスタントに行われています。感慨深かったのではないですか。

 33歳の厄年ということもあり、大変な年でした。ちょうど実家を改築していて、仮住まいをしていたのですが、空き巣に入られて、建築屋さんに払う中途金を盗まれてしまったんです。悪いことは続くもので、初座長公演の初日の第一部で足の薬指を粉砕骨折してしまいました。二部の歌謡ショーではチャイナドレスを着てハイヒールで階段を下りなきゃいけなかったのに、パンパンに腫れた足が靴に入らない。トレーナーに足の指をテーピングしてもらって、何とかステージに立てました。公演中は毎日腫れを冷やして、トレーナーにマッサージとテーピングをしてもらうことの繰り返しで、思い出深いというか強烈に覚えていますね(笑)。

――99年には俳優の杉良太郎さんとご結婚。週刊誌に「交際1ヶ月で電撃結婚」と書き立てられました。

 それはちょっと大げさですよね! 知人を交えて会食をして、3度目にお会いした後から、いろいろなお話をさせていただくようになりました。たとえば将来の話とか、「老後どうするの?」とか、「芸能界いつまでやるの?」とか話しましたね。結婚を決めた後、発表までは周囲にあれこれ言われたくないので、写真週刊誌の記者さんの目を避けるため、かなり注意深く生活していたのに、窓の外をのぞくと記者さんがいたんですよね(笑)。

――「老後どうするの?」なんてまだ伍代さんは30代後半ですよね。結婚の決め手は何でしたか。

 お話しているうちに、杉さんは理解してくれる人が少ないんだろうな、って思ったんです。私と一緒になれば、絶対この人は楽になる。私は(この人のことを)理解できるから、って。ご存知の通り杉さんは、福祉活動に力を入れていますが、その活動を全ての人が理解してくれているわけではありません。でも、杉さんは、「何を言われても関係ない」というスタンス。ところが私たち演歌歌手は、万人に受け入れられるために、主張したり強い色を出さないように言われて育ってきてるんですよね。うがった見方をされる人も多いから、先頭に立って行うのではなく、匿名でやったほうがいいんじゃないかって。実際に飛び込んでみて感じたのは、福祉活動はやればやるほど無力感に苛まれるということ。どんなに力を尽くしても、世界中の恵まれない子どもの全員を助けられるわけではないですから。そんな心が折れそうな時、「大丈夫だよ!」と元気づけながら、一緒に活動してくれる人が必要です。それが私の役目。皆を援助するというよりは、杉さんを助ける感覚で手伝っています。活動を続けながら、私自身すごく強くなりましたね。人の評判が気にならなくなりました。1人の時よりも結婚してからの方がそう思います。

■病を得ていっそう募る演歌への想い 新人プロデュースにも意欲

――音楽活動の傍ら、12年からは「知って肝炎プロジェクト」の肝炎対策特別大使を務められ、啓発活動も精力的に行われています。

 C型肝炎は症状がないまま進行するので、感染しているかどうかは血液検査でしかわかりません。しかも一部保険適用になりましたが、未だ検査はオプションです。そのため、自ら行動を起こしてくださいと呼びかけています。私自身、C型肝炎ウイルスに感染していることがわかったのは、先ほどお話した94年に新宿コマ劇場で初座長を務めた時でした。1ヶ月の長丁場なので、念のため事前に人間ドックに入ったところ、肝機能の数値が高かったので検査して、ウイルスが見つかったんです。当時は完治できる保証がなくて、治療するにも副作用の強い療法しかなかったので、主治医といい薬ができるまで待とうということで経過観察の状態が続いていました。それが、00年代半ばあたりから新しい療法ができたので、09年から治療を始めることにしたんです。ある意味賭けでした。

――今年3月に喉のジストニアであることを公表されましたが、「休むのに飽きちゃった。逃げるのをやめました」とおっしゃってからは病状が回復されたとか。

 そうなんです。明らかにじゃないけど(病気の)抜け方を理解しましたね。私の場合は、自分の意に反して喉が痙攣してしまう症状なので、いろいろな治療法を試してみて、病気との付き合い方がわかってきました。この病気はストレスが原因なんです。スポーツ選手の「イップス」が有名ですが、電話交換手も電話が鳴ると右手が動かなくなるとか、仕事上、一番大事な部分に症状が出るそうです。瞑想をする、体操をする、背筋を鍛える、スクワットをする、怒鳴る、砂浜を裸足で走る、紫外線を目から入れる…。これまで良いと言われることは全部やりました。大声だしたり、クーラーを効かせた部屋で口を開けて寝たり、以前なら喉をいたわってやらなかったけれど、お休みしているからいいや、って気にせずに生活していたら、徐々に声が出るようになりました。

――そんな中で今年7月には、昨年1月発表のシングル「雪中相合傘」を劇化した新曲「歌謡劇 雪中相合傘−科白編−」を発売。10分超えの長編ミュージックビデオの世界観は伍代さんの発案なんですね。

 新作を出しても、満足に歌えないのであれば、作っていただく先生にも失礼だと思ったし、喉の病気にかかってしまったことで消化不良で終わった前作をもう1回膨らませてみたいという思いもありました。この曲は初めて聴いた時から私の中に「吹雪の中を歩く男女」のイメージがあって。写真とアニメーションが融合した制作方法はスタッフから提案されて、私自身大成功だと思っています。

――これからは歌に加えクリエイター伍代夏子の活動もあるのではないですか。

 歌をお休みしていた間、歌番組の司会をしていました。出演歌手の皆さんの歌を聴いて、自分が歌えないせいかポロポロ涙が出てくるんです。「私も早く歌いたい、私だったらこういうふうに歌ってみたい」という気持ちがむくむく湧いてきて。若い歌手の方は若さから脱皮する時に、大人としての表現力が必要になります。その時に、私が恩師の市川昭介先生に教わったように、歌手の先輩として「こういう声を出すといいんじゃない?」と具体的にアドバイスしてあげられるような存在になれたらいいですね。

――伍代さんは市川昭介先生に出会い、ひと皮向けたとおっしゃっていました。

 市川先生とはCBS・ソニーに移籍してから出会いました。先生は、「君が演歌を好きなのは、きっとそこに心を感じたからでしょう。だから君も、聴いている人に心を伝えるような歌い方をしないとね」とおっしゃって。その“心の伝え方”を、精神論だけではなく技術も一緒に教えてくださったんです。それは他の先生にはない教え方でした。先生と出会わなければ、今の伍代夏子はいないと思います。

――来年の今頃、新人のプロデュースをしているかもしれませんね。

 「この子に自分が持っているもの全てを注ぎ込みたい!」と思える新人に巡り合ったら、ひょっとしてあるかもしれませんね。


■伍代夏子 プロフィール:
 1987年、CBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックレコーズ)より「戻り川」でデビュー。同曲が大ヒットとなり、翌88年に「第21回日本有線大賞」と「第21回全日本有線放送大賞」の最優秀新人賞を受賞。演歌分野では初の両賞の同時受賞となった。90年には「忍ぶ雨」で「NHK紅白歌合戦」へ初出場し、以来、通算22回(16年現在)の出場を果たしている。99年、俳優の杉良太郎と結婚。そのおしどりぶりは、つとに有名で夫のライフワークでもある福祉活動に、夫婦で熱心に取り組んでいる。12年、厚生労働省より「肝炎対策特別大使」を拝命。C型肝炎を克服した自身の経験をもとに、肝炎の正しい知識と検査受検を広く呼びかけている。 また、諸外国との文化交流にも熱心でこれまで数々の国際交流に貢献しており、その功績が認められ15年には外務大臣表彰を拝受した。18年、全国で被害が相次ぐオレオレ詐欺を食い止めるため、オレオレ詐欺予防プロジェクトチーム「ストップ・オレオレ詐欺47〜家族の絆作戦〜(略称:SOS47)」を結成。同年、警察庁より「特別防犯支援官」を拝命。趣味のネイチャークラフトや写真撮影など、音楽だけにとどまらず活動の幅をますます広げている。

関連写真

  • 芸能活動40年を迎えた伍代夏子
  • 写真左から、星ひろみ ⇒ 加川有希 ⇒ 中川輝美 ⇒ 伍代夏子 と改名を4度繰り返す
  • 「戻り川」キャンペーンの模様(1988年)
  • 東京・代々木八幡で魚屋を営む実家を手伝う伍代夏子(26歳の頃)
  • 2015年「伍代夏子30周年記念コンサート」(東京渋谷公会堂)の模様
  • 2020年のコンサートの模様

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