“日本最古の青春パンクバンド”ガガガSPが18日に5年ぶり令和初作品となる11thアルバム『ストレンジピッチャー』を発売する。2000年に「京子ちゃん」からデビュー20周年を迎えた同バンドのコザック前田(40)、山本聡(38)が変化、そしてこれからを語った。
■デビュー20周年の変化 恩人たちへの鎮魂歌を
1997年に地元神戸にて結成したガガガSP。前田のルーツである「フォークソング」を「パンク」というフィルターに通す事で全く新しいパンクを誕生させた。その後、驚異的なスピードで若者たちの心をつかむと、2002年1月「卒業」でメジャーデビュー。一気にシーンの中心に躍り出た。2000年代前半の“青春パンク”ブームのけん引役となった。
『ストレンピッチャー』というタイトルについて前田は「これまでにガガガSPがやってきた音楽から、ちょっと変化した。そんなに大きな変化ではないですが」と説明し、山本は「今までとは違うものを作品にしたいというのを、前田さんのフィルターを通してもらって言葉にしたのが『ストレンピッチャー』ですね」と付け加えた。前田は「曲は、ここにいないベースの桑原康伸が2曲、山本が6曲、僕が3曲作りました。作り方、レコーディングの仕方も変わりました。全体のアンサンブルを考えるようになった。これまでは勢いに任せてバーンってなっていたんですが、音楽として聞きやすいように。いい形で作れたと思いますね」と自信を見せる。
誰に聞いてほしいか問われると前田は「やっぱり世代ぐらい。どこに向けてのコンセプトは強くないんですけど家庭を持ったりとか自分の半径5メートルの責任を持ってくる年齢になる。そういう人は歌で背中を押してもらいたいと思っているんじゃないかなって。自分が押すべき人間かは置いといて『これでいいんだ』と思わせてくれるものがほしいと思う」と呼びかけた。
気づけば「京子ちゃん」でデビューから20周年。前田も40歳という節目の年を迎えた。「40歳になりたてホヤホヤですけど、モノの見方が変わってきた。これまでは自分を肯定する力が少なかったところがあった。そうなると他者を非難して自分を逆張りする。そういうことで自分自身を成り立たせていたようなところがある。今は肯定感があって、そうなると音楽と純粋に向き合えるようになる。それは円熟なのかな」としみじみと語る。山本は20年という月日について「今となっては、という感じなんですけど自分たちで自分たちの型にハメていっちゃっている部分がデカかった。それをヨシとしてきて、それでいい部分もいっぱいあるんですけど」。
20年目を迎えて、ガガガSPは変化しているそう。多くのきっかけがあったが、転機となったのは恩人たちの死だ。ガガガSPが出演していたチャリティーイベント『COMIN’KOBE』の主催者だった松原裕さん(享年39)、オナニーマシーンのリーダーで雑誌編集者時代にガガガSPを見出したイノマーさん(享年53)、そして前田の父親とゆかりのある人たちが旅立った。山本は「割と身近で見ていた人。そういう経験があると『元気一発』じゃ物足りない部分が出てきた。そういうところにも1歩踏み出す作品になればなと思っていた」と話す。
イノマーさんについて前田は「最初にイノマーさんが『インディーズ・マガジン』にうちらのことを書いてくれた。『線香花火』を出したころで、東京で誰も知らないころです。レビューで『素晴らしい』と褒めてくれて、今でも文章を覚えています。事務所の社長は別として、初めて東京の人で見初めてくれた。神戸では友だちとかもいて人が集まるようになったけど、自分らが東京で通用するのかと思っていた。すごく自信を与えてくれた人ですね」と感謝の言葉を口にする。
前田もイノマーさん同様に断酒した共通点がある。「先にイノマーさんがお酒をやめて、応援してくれた。そこから、また一緒にやるようになった。それで、ちょっとしたらイノマーさんががんに。最後まで僕らを相手にする必要性はなかった。(支援イベントなどで)銀杏BOYZ、サンボマスター、氣志團が出たら、うちを出す必要はない。でも、最後までそばに置いてくれた。末期のときも、お見舞いに行かせてもらった。会っている回数として東京と神戸で、むちゃくちゃ多いわけではないですけど。青春パンクブームを仕掛けてくれた。僕らが全国に自分らの音楽を届けるきっかけを作ってくれた人ですね」と話し、イノマーさんとの思い出は尽きることがない。
■現状維持からの脱却「音楽に純粋でいたい」 さらなる進化の道へ
音楽との向き合い方も変化。前田は「アルバムの最後に入ってる『夢にさえ消えない君よ』は、僕の同級生であった松原という主催者、自分の父親、そしてイノマーさん、3人の気持ちを思い浮かべながら書いた曲ですね」と話し、山本も「今まではバンドに曲を作らなくちゃと思って書いていた。今回は何かできごとがあったから曲にした曲をバンドに持っていった。前田さんの『夢にさえ消えない君よ』もそうですけど作らないといけないからと作ったアルバムじゃない。何かあったできごとに対して曲で表現して吐き出した。日記に近いようなイメージですね。たとえば『スイートフォークミュージック』は松原さんを看取った日にできた曲。僕の中では鎮魂歌。本人が明るい人間だったので、明るい曲にしたいと思った。そういうできごとのある曲が多いですね。ここ何年かの僕らが入ってますね」。
一時代を築いた青春パンクブーム。「若さという勢いはあったけど、ブームになったものはなんでもそうですけど長くは続かない」と思いをはせながら「でも、バンドでブームになったのって、うちらが最後。音楽も多岐にわたるし、みんなが同じものをやるのも最後だったんじゃないかな。それを体験できたのは今の自分にとって宝ですね」とじっくり噛みしめるように話す。
そこから20年近くが経過。「いろんなものが変わって、自分らもついて行こうとしたこともある(笑)」と前田は苦笑いを浮かべ、山本も「置いてきぼりになったな、とスネてた時期もあります(笑)。ようやくですかね。バンドの中で『俺らは、これやから』となったのは。あきらめよりは、吹っ切れに近いですかね」と明るい。
次なる節目へ、ガガガSPのこれからを聞くと前田は「ここ数年は現状維持という言葉が好きだった。バンドができる状況を維持していくことが実は幸せと思っていたんです」という。続けて「でも、自然に来るものに対して純粋に音楽を基礎にしながら生きていきたいと思った」と気持ちの変化を再び語る。そして「そういう風にしていったら、どうしても商業的なところから弾かれることがあるかもしれない。これまで見に来てくれた人の期待を裏切ってしまう結果になるかもしれない。でも、音楽を好きで始めたということに対して純粋でいたい。40歳になると『食べるため』というのと逆の思考になってきましたね。『こうしなアカン』という色眼鏡なしにやっていきたいですね」。
不惑の年を迎えたが、ガガガSPは自分たちの道を見つけ、昔のように真っ直ぐに走り続けていく。
■デビュー20周年の変化 恩人たちへの鎮魂歌を
1997年に地元神戸にて結成したガガガSP。前田のルーツである「フォークソング」を「パンク」というフィルターに通す事で全く新しいパンクを誕生させた。その後、驚異的なスピードで若者たちの心をつかむと、2002年1月「卒業」でメジャーデビュー。一気にシーンの中心に躍り出た。2000年代前半の“青春パンク”ブームのけん引役となった。
『ストレンピッチャー』というタイトルについて前田は「これまでにガガガSPがやってきた音楽から、ちょっと変化した。そんなに大きな変化ではないですが」と説明し、山本は「今までとは違うものを作品にしたいというのを、前田さんのフィルターを通してもらって言葉にしたのが『ストレンピッチャー』ですね」と付け加えた。前田は「曲は、ここにいないベースの桑原康伸が2曲、山本が6曲、僕が3曲作りました。作り方、レコーディングの仕方も変わりました。全体のアンサンブルを考えるようになった。これまでは勢いに任せてバーンってなっていたんですが、音楽として聞きやすいように。いい形で作れたと思いますね」と自信を見せる。
誰に聞いてほしいか問われると前田は「やっぱり世代ぐらい。どこに向けてのコンセプトは強くないんですけど家庭を持ったりとか自分の半径5メートルの責任を持ってくる年齢になる。そういう人は歌で背中を押してもらいたいと思っているんじゃないかなって。自分が押すべき人間かは置いといて『これでいいんだ』と思わせてくれるものがほしいと思う」と呼びかけた。
気づけば「京子ちゃん」でデビューから20周年。前田も40歳という節目の年を迎えた。「40歳になりたてホヤホヤですけど、モノの見方が変わってきた。これまでは自分を肯定する力が少なかったところがあった。そうなると他者を非難して自分を逆張りする。そういうことで自分自身を成り立たせていたようなところがある。今は肯定感があって、そうなると音楽と純粋に向き合えるようになる。それは円熟なのかな」としみじみと語る。山本は20年という月日について「今となっては、という感じなんですけど自分たちで自分たちの型にハメていっちゃっている部分がデカかった。それをヨシとしてきて、それでいい部分もいっぱいあるんですけど」。
20年目を迎えて、ガガガSPは変化しているそう。多くのきっかけがあったが、転機となったのは恩人たちの死だ。ガガガSPが出演していたチャリティーイベント『COMIN’KOBE』の主催者だった松原裕さん(享年39)、オナニーマシーンのリーダーで雑誌編集者時代にガガガSPを見出したイノマーさん(享年53)、そして前田の父親とゆかりのある人たちが旅立った。山本は「割と身近で見ていた人。そういう経験があると『元気一発』じゃ物足りない部分が出てきた。そういうところにも1歩踏み出す作品になればなと思っていた」と話す。
イノマーさんについて前田は「最初にイノマーさんが『インディーズ・マガジン』にうちらのことを書いてくれた。『線香花火』を出したころで、東京で誰も知らないころです。レビューで『素晴らしい』と褒めてくれて、今でも文章を覚えています。事務所の社長は別として、初めて東京の人で見初めてくれた。神戸では友だちとかもいて人が集まるようになったけど、自分らが東京で通用するのかと思っていた。すごく自信を与えてくれた人ですね」と感謝の言葉を口にする。
前田もイノマーさん同様に断酒した共通点がある。「先にイノマーさんがお酒をやめて、応援してくれた。そこから、また一緒にやるようになった。それで、ちょっとしたらイノマーさんががんに。最後まで僕らを相手にする必要性はなかった。(支援イベントなどで)銀杏BOYZ、サンボマスター、氣志團が出たら、うちを出す必要はない。でも、最後までそばに置いてくれた。末期のときも、お見舞いに行かせてもらった。会っている回数として東京と神戸で、むちゃくちゃ多いわけではないですけど。青春パンクブームを仕掛けてくれた。僕らが全国に自分らの音楽を届けるきっかけを作ってくれた人ですね」と話し、イノマーさんとの思い出は尽きることがない。
■現状維持からの脱却「音楽に純粋でいたい」 さらなる進化の道へ
音楽との向き合い方も変化。前田は「アルバムの最後に入ってる『夢にさえ消えない君よ』は、僕の同級生であった松原という主催者、自分の父親、そしてイノマーさん、3人の気持ちを思い浮かべながら書いた曲ですね」と話し、山本も「今まではバンドに曲を作らなくちゃと思って書いていた。今回は何かできごとがあったから曲にした曲をバンドに持っていった。前田さんの『夢にさえ消えない君よ』もそうですけど作らないといけないからと作ったアルバムじゃない。何かあったできごとに対して曲で表現して吐き出した。日記に近いようなイメージですね。たとえば『スイートフォークミュージック』は松原さんを看取った日にできた曲。僕の中では鎮魂歌。本人が明るい人間だったので、明るい曲にしたいと思った。そういうできごとのある曲が多いですね。ここ何年かの僕らが入ってますね」。
一時代を築いた青春パンクブーム。「若さという勢いはあったけど、ブームになったものはなんでもそうですけど長くは続かない」と思いをはせながら「でも、バンドでブームになったのって、うちらが最後。音楽も多岐にわたるし、みんなが同じものをやるのも最後だったんじゃないかな。それを体験できたのは今の自分にとって宝ですね」とじっくり噛みしめるように話す。
そこから20年近くが経過。「いろんなものが変わって、自分らもついて行こうとしたこともある(笑)」と前田は苦笑いを浮かべ、山本も「置いてきぼりになったな、とスネてた時期もあります(笑)。ようやくですかね。バンドの中で『俺らは、これやから』となったのは。あきらめよりは、吹っ切れに近いですかね」と明るい。
次なる節目へ、ガガガSPのこれからを聞くと前田は「ここ数年は現状維持という言葉が好きだった。バンドができる状況を維持していくことが実は幸せと思っていたんです」という。続けて「でも、自然に来るものに対して純粋に音楽を基礎にしながら生きていきたいと思った」と気持ちの変化を再び語る。そして「そういう風にしていったら、どうしても商業的なところから弾かれることがあるかもしれない。これまで見に来てくれた人の期待を裏切ってしまう結果になるかもしれない。でも、音楽を好きで始めたということに対して純粋でいたい。40歳になると『食べるため』というのと逆の思考になってきましたね。『こうしなアカン』という色眼鏡なしにやっていきたいですね」。
不惑の年を迎えたが、ガガガSPは自分たちの道を見つけ、昔のように真っ直ぐに走り続けていく。
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2020/03/18