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都倉俊一氏、文化功労者選出 原点は「ポール・マッカートニーの衝撃」

 「ペッパー警部」「ひと夏の経験」「あずさ2号」などのヒットで知られる作曲家・都倉俊一氏(70)が、今年度の文化功労者に選ばれた。このほど都内で開かれた会見で都倉氏は、作詞家、スタッフ、歌い手に感謝したうえで、「平成の最後の年にこの栄誉をいただいて、次の御代に昭和、平成のレガシーを伝えるのも一つ、僕の役目かなと考えています」と喜びを語った。

文化功労者に選出された作曲家の都倉俊一氏 (C)ORICON NewS inc.

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 1969年、大学在学中に中山千夏に提供した「あなたの心に」で作曲家デビュー。71年から放送開始された伝説のオーディション番組『スター誕生』では阿久悠さん(故人)らとともに審査員を務め、山口百恵ピンク・レディーらを発掘して楽曲を提供した。世に出したヒット曲は1000曲を超え、レコード売上枚数は4000万枚超のヒットメーカー。日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員・会長を歴任し、日本の著作権保護期間の延長など、音楽等の創作に携わる人たちの権利を守り、環境整備に尽力してきた功績も評価された。昨年大みそかには平尾昌晃さんの後任として『NHK紅白歌合戦』で「蛍の光」の指揮者を務めた。

 都倉氏は「栄誉をいただきました。これも非常に長い間、音楽を愛してくださった多くの皆様の支えがあったからこそだと思い、心から感謝申し上げます。我々はピアノの前で譜面書いているだけの仕事なので、すばらしい言葉をくださった作詞家というパートナー、スタジオで一生懸命一緒に音を作ってくださったスタッフ、何よりも我々の曲を世の人々に伝えてくださった歌い手の皆さんに感謝を申し上げたいです」と謙そんを交えながら喜びをかみしめた。

 文化功労者選出は文部科学省からの内示で知ったといい、「まずは家内に報告いたしまして、喜んでもらいました」と照れ笑い。現在は日本の舞台芸術文化の復興と国内アーティスト育成を目的とする財団法人「日本ミュージカル育成基金」を設立準備中。将来的には若者の海外留学を含めた研修システムの確立、日本における本格的なミュージカル制作を目指していることから「現役の間にこういう栄誉をいただき、背中をドーンと押されて『これからも頑張れ』という勇気をいただいた気がしております」と語った。以下、主な一問一答。

――作曲家になろうと思った動機、影響を受けた人は?

音楽が好きで子どもの頃からバイオリンをやったり、ピアノをやったりしていたので、音楽は絶えず周りにありました。学生時代はバンドをやったり、高校生の頃はドイツで育ったので、クラシックが強い環境でしたが、ビートルズやローリング・ストーンズのモノマネバンドをやったりしている中で、僕は人前で何かをやることより、裏でやっているほうが好きだなと。音楽活動はしたい。でもあんまり人前でやるのは得意ではなく、音を作るほうが好きだった。それが動機といえば動機。作曲家になろうと思ってなったわけではないんです。ソングライターとして影響を受けたのはポール・マッカートニー。いろんな作曲家の影響をもちろん受けてきましたけれども、中学生か高校生のときに出会ったポール・マッカートニーのメロディーは非常に衝撃的でした。

――阿久悠さんとのエピソードをお聞かせください。

阿久悠さんという盟友を得て、長い間一緒に仕事をして、一回り上の先輩なんですがいい兄貴分で本当にかわいがってもらいました。作詞家と作曲家という立場で、お互いに畏敬の念を持っていました。その逆に、言葉がなくてもツーカーの間柄だった。「ペッパー警部」という曲ができたときに、「ペッパーってどういう意味? なんで警部なんだ」と聞かれて、2人で「なんでだろうね?」ってお答えして。我々はお互いに「どうして?」って聞いたことがないんです。聞いた瞬間に、僕たちの世界じゃなくなっちゃう。理屈はないんです。「夏だからメルヘン書こうよ」っていう話になって、「夏は渚だね」「じゃあメルヘンはシンドバッド」にしようかと言って「渚のシンドバッド」になった。そういう遊び心といいますか。

ある日突然、阿久さんからドーンと五線紙が5000枚届いたんです。阿久さんはある意図があって送ってくれた。だからどうしたこうしたというのは一切なく、そういう間柄だったから20年以上やってくれたのかなと思います。(使い切ったかの質問に)途中でコンピューターの時代になりまして、なかなか5000枚は使いきれませんでした(笑)。でも、手書きでスコアを書くときは大切に一枚ずつ使っています。残りは何百枚とかでしょうか。

――社会現象となった、山口百恵さん、ピンク・レディーにまつわる思い出。

山口百恵さんはこれだけのレジェンドになったにはなっただけの理由があり、彼女が持っていた神秘性、彼女が持つ人を引きつける引力、そういうものが彼女をつくったんじゃないかなと思います。初めて僕のところに来たときは中学生だったと思いますが、桜田淳子さんや他のアイドルの女の子に比べても地味な子。カメラマンの皆さんが「もっとニコッと笑って」と言っても笑えないような子でした。ある時、僕たちが作った彼女の世界よりも、彼女が持っている世界に我々が入っていったほうがずっと魅力的だということに気がついたんですね。ハタチで引退するまで彼女はそれを貫いたし、スタッフもみんな理解していました。

ピンク・レディーもやはり『スター誕生』という番組で地味に出てきてわけですけど、僕も阿久悠さんも振付の土居甫さんもプロデューサーの飯田久彦さんも、誰一人としてあんなに大きな社会現象になるなんて信じていた人はまずいません。我々は一生懸命レールに乗せてドーンと押したわけですけど、あまりにピンク・レディーがレールの上を速く走りすぎて、我々が追いつけなくなってしまったみたいなところがあります。4年くらいの間でしたが、今考えても不思議な感じがします。

――昭和、平成の音楽を言葉で表現できるようでしたら。

古賀政男さんや吉田正さんなど戦前から戦後にかけて音楽を作ってこられた方に比べると、情緒がなくなったと言われたことがあります。それからニューミュージックとか、J-POPの時代になって、手作りから機械作りになり、ポップスをずっと作ってきた我々ですら情緒がなくなってきたと思います。しかし、その時代その時代に完全消滅するものと、次の時代にもずっと伝わっていくものとがある。実はそれが情緒であって、どんな時代でもどこか心に感じるもので、音楽の形式や作り方ではなく、人間が持っているものだと思うんです。

僕は曲を作るときに、人間の情緒を信じなくなったら芸術は作れないと思う。すごく完成されている音ではなく、すごく粗野だったり、役者さんや歌い手さんがとちったりしても、見ている人の情緒に訴えられるのが芸術の命だと思うんです。どんな時代になっても、平成が終わって次の御代になっても、美しいものを見たりおいしいものを食べて感激したり、人間はそういう心を持っていると信じながら芸術をつくっていくべきで、僕の場合はそれが音楽であり、根本はメロディーなんです。

――70・80・90年代と今のアーティストとの違いがあれば。

違いは必然的にあります。伝説的な話でありますけれども、美空ひばりさんはスタジオでオーケストラと同時で録音して、3回くらい歌って、はい、終わり。スタジオで録音するということが非常に真剣勝負だった。我々の時代になってマルチトラックというのが発明され、デジタル化されていくと、歌い手さんが音程を外してもコンピューターで全部直せてしまう。アーティストの真剣さ、現実的な技術も変わってくることは事実ですね。でも、どの時代でも本当に歌のうまい天才はいるんですよ。こういう子が実力とともに認められるためにも、生の声を届ける必要性を感じています。

僕の大きな夢がありまして、日本のミュージカルをはじめとするライブエンターテインメントをなんとか世界的にしたい。日本は世界で二番目に大きな音楽マーケットですが、ライブエンターテインメントは欧米に比べて遅れている。日本には成熟した大人のエンターテインメントがあまりにも少なすぎるんです。アーティストの実力や真価が問われるのはライブなので、ブロードウェイ(米ニューヨーク)やウエスト・エンド(英ロンドン)みたいなライブエンターテインメントの土壌を日本でも創っていきたい。そうすると自然にそこに通用するアーティストも育っていきますし、ぜひ実現したいと思います。

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