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高田純次インタビュー『芸能生活“だいたい”35周年「ホントに進歩がないよね〜」』
芸能人としてやっていけるなんて、正直これっぽっちも思ってなかった
高田そうですね。初めてメディアの仕事をしたのは、確か『笑点』だったと思うんですよ。コントをやってね。初めてのレギュラーは『笑ってる場合ですよ』だったかな。あの当時はレギュラー番組というものを全く理解してなくてね。ただ、当時所属していた『東京乾電池』の社長は、僕が何とかレギュラーを獲得できたから、事務所をたたまずに済んだって言ってましたよ。
――高田さんが事務所の屋台骨を支えていたと(笑)。
高田他のタレントは皆、舞台中心でしたからね。もうね、ケツから槍が出るくらい頑張りましたよ!
――(笑)。因みに、当時はもうご結婚されてたんですよね?
高田うん。劇団に入る前から一緒だったかな。もうちょっと仕事が順調になったタイミングで結婚してれば良かったかなって思いますね。ただ僕は役者も中途半端だし、落語や漫才も出来ない。芸能人としてやっていけるなんて、正直これっぽっちも思ってなかったんですよ。
笑いって常に変化していくものだから、凄く刹那的なんだよね
高田何が面白いか分からないから、ケツを出すんですよ(笑)。
――よく、高田さんは“平成のテキトー男”と形容されますけど、今回のDVDを観ても、決してそんなことないんだって改めて思います。むしろ、常に120点を全力で目指していらっしゃるなって。過剰なまでのサービス精神というか。
高田『東京乾電池』の時は、暗く、深く、静かにやってたんですよ。だから、外でのロケなんて考えられなかったんです。だから、そういう仕事が来ると楽しくてしょうがないって気持ちはありましたね。発散してたんでしょうね。
――『元気が出るテレビ』も殆どロケでしたもんね。ただ、僕ら視聴者はただ笑ってればいいので楽なもんですけど、作っている方はシンドイですよね。『元気が出るテレビ』でADをしていたマッコイ斉藤さんも「常にピリピリしていて和気あいあいな雰囲気はなかった」と以前仰っていたので。
高田やっぱり、さっきも言いましたけど、10人いて10人全員が笑うことって無いですから。とにかく現場では色々な意見を出し合って試行錯誤していたよね。
――自分たちが考える“面白いこと”を精一杯表現しながら……。
高田そうそう。そこは自分たちを信じるしかなかった。あとは編集マンの好みを理解して、「こうしたらカットせず使ってもらえるな」って学んでいってね。お尻じゃなくて“前”を出したらカットされるなとか(笑)
――暗中模索の中で進んでいって徐々に答えを見つけていったんですね。
高田まぁ、答えとまでは言えないけどね。レギュラー陣も(ビート)たけしさんはその前に一緒にお仕事させてもらっていましたけど、松方弘樹さんとは初めてだったからね。東映のスターである松方さんと初めてお会いしたときも「高田さん、一緒に頑張ろうな!」って言われてね。熱かったなぁ〜。多分、松方さんがタバコ持ってたからかな(笑)。
――(笑)。高田さんって、本当にブレないですよね。その姿勢が後輩芸人からリスペクトされる要因なんでしょうね。
高田どうなんだろうねぇ。時々、そういった話も聞くんだけど、直接言われたことないから。逆に僕は尊敬する後輩が一杯いるから、ギャグをいつかパクってやろうかと思ってますよ(笑)。ただね、笑いって時代時代で常に変化していくものだから、凄く刹那的なんだよね。だからこそ、笑いを取った時は快感なんだ。「俺は間違ってない!」ってことの証明だからね。