ORICON STYLE

2008年02月20日
最強のミュージックマンが音楽を語る!! vol.2
ユニバーサルミュージック梶@執行役員 マーケティングエグゼクティブ寺林 晁 氏
profile

寺林 晁 氏
1972年ウドー音楽事務所入社。1979年ワーナーパイオニア入社を皮切りにレコードビジネスの世界へ。1994年日本フォノグラムへ、その後改名した同社(マーキュリーME)の代表取締役社長に。現在はその豊富な人脈を生かしてユニバーサルミュージックで中森明菜『歌姫』、徳永英明『VOCALIST』シリーズなど、次々と大ヒットを生み出している。

『歌姫2』/中森明菜 『歌姫2』/中森明菜

 2002年3月に発売されたアルバム。15年ぶりに中森明菜と再会、その抜群の歌唱力を世間に再度認知してもらい、歌手としての弾みになればと歌力をアピールするための企画を考えた。採用するヒット曲のラインナップで彼女と意見をたたかわせながら、最終的にはこちらの意向を汲んでもらって作った思い出の1枚。おかげさまで大ヒットになった。結果的にこの時に培ったノウハウがその後の徳永英明の『VOCALIST』シリーズ、『服部良一トリビュートアルバム』につながっていった。

『チュニジアの夜』/アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ 『チュニジアの夜』/アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ

学生時代にアルバイトをしながらジャズ喫茶店で聴き、数年後に本人と仕事をするようになったという思い出深い曲。
後に、私の知人女性と本人がニューヨークで結婚してケイコ・ブレイキーとなり、バンドと共に来日した際には、スタッフとして一緒にツアーをした熱い時間が、走馬灯のように甦ります。
その後本人は5度目となる結婚をし、最後の子供に私の名前から“アキラ・ブレイキー”と名付けたとのこと。 今はニューヨークでどうしているのだろうか。

『フランプトン・カムズ・アライブ』/ピーター・フランプトン 『フランプトン・カムズ・アライブ』/ピーター・フランプトン

 このアルバムが全米1位になり来日することになったのだが、いま一つチケットの売れ行きが芳しくない。そこで、NC9(NHK9時のニュース)に本人を出演させようとプロモーションした結果、本人だけではインパクトがないということになり、知り合いだった当時の文部大臣で、今は亡き砂田重民氏にお願いしてリハーサルに来ていただくことになりました。 砂田さんと本人が会って話しをしているところを収録してもらい、当時の芝アルファスタジオの壁を一夜にして塗り替えたというおまけまでつき、コンサートはソールドアウトに…。NHK(担当プロデューサーは小山さんでした)と砂田先生には今でも感謝しています。これもプロモーションというものを考えさせられたという意味で思い出の1枚となっています。

EMIミュージック・ジャパン行方 均 氏

行方 均 氏
1951年生まれ。早大政経学部卒業。76年、東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)入社、米国系の洋楽制作を担当。88年、ブルーノートの姉妹レーベル、サムシンエルスを洋楽本部内に創設。97年、ストラティジック・マーケティング(ST)本部を立ち上げ「大人の市場」の活性化に注力。ノラ・ジョーンズ、サラ・ブライトマンらの新作と同時に、ビートルズ、クイーン、オフコースなどのベスト盤、『フィール』などのコンピレーション制作に関る。

「抱きしめたい』(シングル盤)/ザ・ビートルズ 「抱きしめたい』(シングル盤)/ザ・ビートルズ
『原子心母』/ピンク・フロイド 『原子心母』/ピンク・フロイド
 
『ジ・アメイジング・バド・パウエル第1集』/バド・パウエル 『ジ・アメイジング・バド・パウエル第1集』/バド・パウエル

「生活」を直撃した3枚です。『抱きしめたい』は自分の意志と小遣いで初めて買ったレコード。「プリーズ・プリーズ・ミー」とAB面のを下さい、といったら、それはもう一枚買わなければいけないのよ、とお店のお姉さんにいわれて驚いた。以後、ビートルズとロックの日々が始まる。その6年後、オールナイト・ニッポンで亀淵(昭信)さんが、心して聴くべし、といってかけた『原子心母』のタイトル曲20分強を心して聴き、これにも驚いて、寝ないで近所のレコード店の開店を待って買った。ソラで全篇口笛で吹けるほど聴き、ビートルズに始まるロックの進化ここに極まれリという気分になった。その3年後、何かの拍子で『ジ・アメイジング・バド・パウエル第1集』収録の「ウン・ポコ・ロコ」4分間を聴いて、ビートルズとの出会い同様の衝撃を受けた。以後、ジャズの日々が始まり、さらに3年後、現在の会社に就職しました。思えば3作品とも(東芝)EMIですね!

EMIミュージック・ジャパン 執行役員Capitol Music プレジデント子安 次郎 氏

子安 次郎 氏
1956年、東京生れ。小学校から高校まで一貫教育の明星学園で基礎教育を受ける。大学時代に恩師、大滝詠一氏と出会い、福生にて書生生活を送る。1979年、東芝EMIに入社。3年間、東京支店にて営業を経験し、4年目より制作部へ。川島なお美さんや薬師丸ひろ子さんなどのアシスタントを経て、BOΦWYを担当。ウルフルズなど担当の後、A&Rのマネージャーとして現在に至る。現在は湯川潮音や新人のKUMAMIのディレクターでもある。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』/オリジナル・サウンド・トラック 映画『サウンド・オブ・ミュージック』/オリジナル・サウンド・トラック

 小学校4年の時に、母に連れられて見に行った映画「サウンド・オブ・ミュージック」。音楽の素晴らしさと映画の素晴らしさを同時に叩きつけられた作品。未だに私の中でのNo.1映画です。当時は当然、ビデオなどというものはなく、サントラ盤を買ってもらい、その時の感動を何度も何度も繰り返しました。サントラ盤というのは、「映像」が無い分、想像力&記憶力を総動員させるものであり、自分の世界を作れるという点で、個人的には、ビデオよりも好きなものです。一般的には「ドレミの歌」が有名ですが、私は、トラップ大佐が子供達の前で歌った「エーデルワイス」にとても感動しました。決して「うまい」歌ではないですが、心に届く歌でした。この映画には別の想い出(「宇宙家族ロビンソン」というアメリカン・ドラマに出ていた、私のアイドル、アンジェラ・カートライトが3女役で出演)もあり、私の中で特別なミュージカル映画として心に残っています。

『Niagara Moo』/大滝詠一 『Niagara Moon』/大滝詠一

 大滝さんとの出会い、ラジオ関東(現ラジオニッポン)の伝説的番組「ゴー・ゴー・ナイアガラ」との出会いが無かったら、私は決して、今の仕事はしていなかったでしょう。ちょうど、大学一年の年に始まった同番組がきっかけで、“書生2号”として福生45スタジオに出入りすることになり、何事にも変えがたい経験をさせていただきました。本当はそのままナイアガラにいるつもりでしたが、当時コロムビアからリリースしていた作品がまったく売れず、ナイアガラは一時解散となり(その後、あの『A LONG VACATION』がソニーからリリースされ、大ヒットを記録します)、私はたまたま、東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)に入社することになりました。大滝さんと出会うきっかけとなった作品がこのアルバム『ゴー・ゴー・ナイアガラ』であり、ノベルティー・タイプの作品を中心とした、第一期ナイアガラを象徴する名盤です。「楽しい夜更かし」は未だに徹マンには欠かせない楽曲です。

「涙をこえて」/シング・アウト 「涙をこえて」/シング・アウト

NHKで放送されていた「ステージ101」は、私の音楽経験に大きな影響を与えてくれました。
当時の若者たちが集まって、新しい日本の音楽を作ろうという流れはいろいろなところで行われていました。その中でも私にとって大きな存在であったのは、MS(ミュージカル・ステーション)の金子洋明さんや森山良子さんたちが中心となって広げていった、スチューデント・フェスティバル(コンサートの最後に「今日の日はさようなら」を全員で歌うことに感動しました)であり、このNHKのステージ101でした。
当時、まだ内幸町にあったNHKに公開放送を見に行ったものです。特に、シング・アウトが歌う「涙をこえて」は、中学生時代の子安少年の心に深く突き刺さりました。そのとき、シング・アウトでベースを弾いていたクマ原田氏とは、1985年に運命的な出会いをします。当時私がディレクターとして担当をした“BOΦWY”のレコーディングで西ベルリンに行った際に、クマさんはコーディネーターとして大活躍をしてくれました。
更にそのクマさんとは昨年末、今私がディレクターをしているシンガー・ソングライター湯川潮音のセカンド・アルバムのプロデューサーとして久々にお会いすることになりました。
運命とはすごいものです。この世の中の、「すべての物事は流れ」であるということを教えてくれているような気がします。その原点にあるのが、この「涙をこえて」という楽曲です。あの氣志團が東芝EMIからデビュー直後のツアーのアンコールで、この「涙をこえて」を演奏していたのも何かの運命かなと思っています。