肺炎のため15日に亡くなった映画監督の大島渚さん(享年80)の通夜が21日、東京・築地本願寺で営まれ、著名人ら約800人が参列した。『愛のコリーダ』で助監督を務めた葬儀委員長の崔洋一監督は涙交じりに大島監督への思いを語り、ビートたけし、山田洋次監督、武田真治、篠田正浩監督らも故人を偲んだ。22日の告別式では『戦場のメリークリスマス』に出演し、音楽を手がけた坂本龍一らが弔辞を述べる。以下は主な参列者のコメント。
■ビートたけし
「(出会いは)夢のようだったね。大島さんはすごい。問題児だったけど、よくぞ問題起こして映画界を引っ張ってくれたなって思う。みんな手を踏み出さないところに踏み込んでいくのが大島さんだった。ありがとうございます、しかない。そのうち、俺も逝くし、また向こうで怒ってください」
■山田洋次
「作る作品、全部スタイルが違う。普通は同じのしか作れないけど、新しい表現を作っていたと思う。想像もつかないことをやってて、前人未踏だった。最後に会ったのは10年くらい前かな。同い年だし、同じ世代の人が亡くなるのは寂しい。がっかりしています。安らかにと言いたいけど、彼が安らぐ日は当分来ないのでは? もっと見ていてほしい」
■武田真治
「『御法度』という映画に出させていただいて、今の僕の全て。勇ましい方でした。観客の顔色を気にしない。やりたい事をやる、追求する。革命的な精神を目の当たりにしました」
■篠田正浩
「(自分は)82歳になるけれど、まだ満足に手足が動いている。それを大島に見せたくないなと思うと病床に足を運ぶことが出来なかった。(大島は)ものすごい気性が激しいけれど、冷酷なほどのリアリスト。リアリストでありながら芸術家の持つ奔放さ。この2つを持ち合わせていた。とっても悪いやつで、とっても優しいやつだった」
■崔洋一
「不肖の弟子でした。思いは山のようにある。最初の(訃報の)一報をいただいた時は無念がよぎった。助監督としては『愛のコリーダ』が最初で最後で、京都の夜に『バカヤロー』と叱られました。その時の私は26歳で、大島さんの気持ちが理解できるレベルではなかった。普段は優しいけど仕事は厳しい方。同じ闘いの場にいると強く教えていただいた。(自分の作品への)評価はさまざまでしたが、『月はどっちに出ている』(1993年公開)は大変気に入って、よく笑っていただいた。偉大な存在でした。最後まで闘い抜いた映画監督だと思います」
■ビートたけし
「(出会いは)夢のようだったね。大島さんはすごい。問題児だったけど、よくぞ問題起こして映画界を引っ張ってくれたなって思う。みんな手を踏み出さないところに踏み込んでいくのが大島さんだった。ありがとうございます、しかない。そのうち、俺も逝くし、また向こうで怒ってください」
■山田洋次
「作る作品、全部スタイルが違う。普通は同じのしか作れないけど、新しい表現を作っていたと思う。想像もつかないことをやってて、前人未踏だった。最後に会ったのは10年くらい前かな。同い年だし、同じ世代の人が亡くなるのは寂しい。がっかりしています。安らかにと言いたいけど、彼が安らぐ日は当分来ないのでは? もっと見ていてほしい」
■武田真治
「『御法度』という映画に出させていただいて、今の僕の全て。勇ましい方でした。観客の顔色を気にしない。やりたい事をやる、追求する。革命的な精神を目の当たりにしました」
■篠田正浩
「(自分は)82歳になるけれど、まだ満足に手足が動いている。それを大島に見せたくないなと思うと病床に足を運ぶことが出来なかった。(大島は)ものすごい気性が激しいけれど、冷酷なほどのリアリスト。リアリストでありながら芸術家の持つ奔放さ。この2つを持ち合わせていた。とっても悪いやつで、とっても優しいやつだった」
■崔洋一
「不肖の弟子でした。思いは山のようにある。最初の(訃報の)一報をいただいた時は無念がよぎった。助監督としては『愛のコリーダ』が最初で最後で、京都の夜に『バカヤロー』と叱られました。その時の私は26歳で、大島さんの気持ちが理解できるレベルではなかった。普段は優しいけど仕事は厳しい方。同じ闘いの場にいると強く教えていただいた。(自分の作品への)評価はさまざまでしたが、『月はどっちに出ている』(1993年公開)は大変気に入って、よく笑っていただいた。偉大な存在でした。最後まで闘い抜いた映画監督だと思います」
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2013/01/21