16日に急性心不全のため亡くなった歌手の西城秀樹(本名:木本龍雄、享年・63)さんの告別式が26日の午前11時より、しめやかに営まれた。西城さん・郷ひろみ(62)とともに「新御三家」として親しまれた野口五郎(62)が涙ながらに弔辞を読み上げた。
■野口五郎 弔辞
秀樹との46年間は簡単に語りきれるものではありません。
こんな風に君への弔辞を読んでいるなんて考えてもいなかった。君は特別な存在だった。兄でもあり、弟でもあり、親友でもあり、ライバルでもあった。いつも怒るのは僕で、君は全部受けて止めてくれて、今思うと僕と君の違いは心の大きさが違うよね。いつも僕が言うことを大事に聞いてくれていて、なんでそんなに信用してくれていたの。
30年ほど前にチャリティーコンサートをするっていうことで、僕に曲を作ってほしいって言ってきたことがあった。
「秀樹、僕は君の曲は作らないって知っているだろう。」「うん、だから作って。」「だから作っては日本語変だから。」「最後にみんなで歌う曲を作って。一応、締切は○○だから。」「秀樹、無理だからね」。
そう言って別れたのに、締切ギリギリに譜面を届けた僕に、君はまるで僕が作ってくるのが当たり前なように玄関先で「ありがとね」って笑顔で一言。完全に見透かされているよね。デビューしてアイドルと呼ばれるようになった僕らはその席を後輩に譲らなければ、そして僕らはさらなる高みを目指さなければと考えていた、その方向が僕らは同じだった。
秀樹は決してアクション歌手ではないし、本物のラブソングを届ける歌手だっていうことを僕は知っている。お互い、独身時代が長かったから、なんでも話すようになって、ゴルフも一緒に行った。君が来るまで迎えに来てくれて、僕がおにぎりとみそ汁を用意していて「夫婦か」って言い合って、僕が「秀樹、結婚するから」って言った時の驚いた顔を僕は忘れない。2月に僕が披露宴をした時に「おめでとう」と握手を求められた瞬間、僕にはすぐわかったよ。コイツ結婚するって。案の定、5ヶ月後に結婚した。
ある時、奥さんが「もしかしたら子どもができたかもしれない」と言い出し、驚いた僕が「あした検査に行こう」って話していたら、君から突然の電話。「五郎、まだ誰にも話していないんだけど、子どもができた」。生まれてみたら同じ女の子で、君の家が6月3日、僕の家が6月5日。マジかこれ。当然、娘たちの初節句、ひな祭りも一緒に祝って、3年前、秀樹の還暦パーティーにサプライズでケーキを持っていった時の秀樹の驚いた顔、忘れられません。その時に「抱いていいか」って聞くと「なんだよー」って言いながらも、僕はそんな君を抱きしめた。
その時、君は僕を抱きしめ返そうとして全体重が僕にかかった。それは僕しかわからない。心の中で「秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね」って思った。それと同時に僕の全身が震えた。こんな状態でファンのみなさんの前でいたのか、そこまでして立とうとしていたのか。なんてすごい奴だ。彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって、彼のコンサートなのにファンのみなさんに僕は「西城秀樹です」って紹介してしまった。
秀樹ほど、天真爛漫っていう言葉がぴったりな人を僕は今まで会ったことがない。何事にも真っ直ぐで前向きで大らかで、みんなを魅了するやさしさとすべてを受け入れる潔さ。秀樹の代わりにはなれないけど、まだしばらくは頑張って歌うからね。お前の分も歌い続けるからね。そして、君を慕ってくれた後輩たちとともに僕らの愛した秀樹のすばらしさを語っていこうと思います。何よりも支え続けてくれたファンのみなさんとともに。
秀樹、お疲れ様。そして、ありがとう。もう、リハビリしなくていいからね。もう頑張らなくていいから。君のかわいい子どもたち、家族をいつも見守っていてほしい。そして、お前が思うラブソングを天国で極めてくれ。お疲れ様。そして、ありがとう。
平成30年5月26日 野口五郎
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祭壇には、1974年にソロ歌手で日本初となる単独野球場コンサートを開催した「大阪球場」が再現された。外野スタンドをモチーフに照明や、色鮮やかな花が約1000本添えられ、西城さんが常に愛用したマイクとスタンドも飾られた。遺影は2001年に撮影。ファン向けの祭壇も特設された。
西城さんは、広島県出身。1972年に「恋する季節」で歌手デビュー。翌年には「ちぎれた愛」、その後も「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」をはじめ、「薔薇の鎖」「ギャランドゥ」などの人気曲を歌った。また、トップアイドルの仲間入りを果たし、郷、野口とともに「新御三家」と呼ばれた。48歳だった2003年、56歳だった2011年に脳梗塞を発症。2度目の脳梗塞では右半身まひという後遺症を負ったが、復帰に向けてリハビリに励んでいた。
★YouTube公式チャンネル「ORICON NEWS」
■野口五郎 弔辞
秀樹との46年間は簡単に語りきれるものではありません。
こんな風に君への弔辞を読んでいるなんて考えてもいなかった。君は特別な存在だった。兄でもあり、弟でもあり、親友でもあり、ライバルでもあった。いつも怒るのは僕で、君は全部受けて止めてくれて、今思うと僕と君の違いは心の大きさが違うよね。いつも僕が言うことを大事に聞いてくれていて、なんでそんなに信用してくれていたの。
30年ほど前にチャリティーコンサートをするっていうことで、僕に曲を作ってほしいって言ってきたことがあった。
「秀樹、僕は君の曲は作らないって知っているだろう。」「うん、だから作って。」「だから作っては日本語変だから。」「最後にみんなで歌う曲を作って。一応、締切は○○だから。」「秀樹、無理だからね」。
そう言って別れたのに、締切ギリギリに譜面を届けた僕に、君はまるで僕が作ってくるのが当たり前なように玄関先で「ありがとね」って笑顔で一言。完全に見透かされているよね。デビューしてアイドルと呼ばれるようになった僕らはその席を後輩に譲らなければ、そして僕らはさらなる高みを目指さなければと考えていた、その方向が僕らは同じだった。
秀樹は決してアクション歌手ではないし、本物のラブソングを届ける歌手だっていうことを僕は知っている。お互い、独身時代が長かったから、なんでも話すようになって、ゴルフも一緒に行った。君が来るまで迎えに来てくれて、僕がおにぎりとみそ汁を用意していて「夫婦か」って言い合って、僕が「秀樹、結婚するから」って言った時の驚いた顔を僕は忘れない。2月に僕が披露宴をした時に「おめでとう」と握手を求められた瞬間、僕にはすぐわかったよ。コイツ結婚するって。案の定、5ヶ月後に結婚した。
ある時、奥さんが「もしかしたら子どもができたかもしれない」と言い出し、驚いた僕が「あした検査に行こう」って話していたら、君から突然の電話。「五郎、まだ誰にも話していないんだけど、子どもができた」。生まれてみたら同じ女の子で、君の家が6月3日、僕の家が6月5日。マジかこれ。当然、娘たちの初節句、ひな祭りも一緒に祝って、3年前、秀樹の還暦パーティーにサプライズでケーキを持っていった時の秀樹の驚いた顔、忘れられません。その時に「抱いていいか」って聞くと「なんだよー」って言いながらも、僕はそんな君を抱きしめた。
その時、君は僕を抱きしめ返そうとして全体重が僕にかかった。それは僕しかわからない。心の中で「秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね」って思った。それと同時に僕の全身が震えた。こんな状態でファンのみなさんの前でいたのか、そこまでして立とうとしていたのか。なんてすごい奴だ。彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって、彼のコンサートなのにファンのみなさんに僕は「西城秀樹です」って紹介してしまった。
秀樹ほど、天真爛漫っていう言葉がぴったりな人を僕は今まで会ったことがない。何事にも真っ直ぐで前向きで大らかで、みんなを魅了するやさしさとすべてを受け入れる潔さ。秀樹の代わりにはなれないけど、まだしばらくは頑張って歌うからね。お前の分も歌い続けるからね。そして、君を慕ってくれた後輩たちとともに僕らの愛した秀樹のすばらしさを語っていこうと思います。何よりも支え続けてくれたファンのみなさんとともに。
秀樹、お疲れ様。そして、ありがとう。もう、リハビリしなくていいからね。もう頑張らなくていいから。君のかわいい子どもたち、家族をいつも見守っていてほしい。そして、お前が思うラブソングを天国で極めてくれ。お疲れ様。そして、ありがとう。
平成30年5月26日 野口五郎
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祭壇には、1974年にソロ歌手で日本初となる単独野球場コンサートを開催した「大阪球場」が再現された。外野スタンドをモチーフに照明や、色鮮やかな花が約1000本添えられ、西城さんが常に愛用したマイクとスタンドも飾られた。遺影は2001年に撮影。ファン向けの祭壇も特設された。
西城さんは、広島県出身。1972年に「恋する季節」で歌手デビュー。翌年には「ちぎれた愛」、その後も「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」をはじめ、「薔薇の鎖」「ギャランドゥ」などの人気曲を歌った。また、トップアイドルの仲間入りを果たし、郷、野口とともに「新御三家」と呼ばれた。48歳だった2003年、56歳だった2011年に脳梗塞を発症。2度目の脳梗塞では右半身まひという後遺症を負ったが、復帰に向けてリハビリに励んでいた。
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2018/05/26