シンガー・ソングライターの清水翔太が、初のベストアルバム『ALL SINGLES BEST』を2月25日に発売。男性ソロアーティストとしてR&Bのバックボーンを持つ音楽性をポップフィールドで昇華させる。その希有なスタンスを守り続けてきたこだわりと葛藤、「優等生だった」と言うデビュー当時の心境について語る。
◆スランプに陥ることもしょっちゅうある
――清水さんは「HOME」のときから、新人らしからぬ安定感と存在感がありました。ギターやピアノの弾き語りというスタイルがメインではない、歌1本の男性ソロアーティストというのも珍しかったです。
【清水】 HIP HOPやR&Bとか、自分で曲を作ってアレンジまでやっている人はいるけど、ポップフィールドでそこまでやるっていうのはパッと思いつくのは槇原敬之さんぐらいですかね。だから僕自身、チャレンジであり闘いであるっていう意識はあって。というのも、R&B的な考え方でいくとJ-POPとか、いわゆるポップフィールドでやっていくっていうのは、よく言う“セルアウト(売れ線に走る)”っていう考え方が強いと思うんですね。でも僕は考え方が逆で、自分のR&B感というものに自信があるので、それをポップフィールドにのせることがむしろこだわりというか。
――コアを持ちながら、マス(メディア)に挑戦していくと。
【清水】 でも、R&BやHIP HOPっていうバックボーンを持ちながら認められるっていうのは、非常に難しい。だからこそ、そこに挑戦していかないと意味ないじゃんって思うんです。メジャーなアーティスとしてやるからには戦い続けなければいけないんじゃないのって想いは、デビューの頃からずっとありました。
――実際、清水翔太ファンは、R&B好きの層と、じっくり歌に浸りたいポップス好きの層と両方あって、リスナーも幅広いですよね。
【清水】 そこは僕のオリジナルな個性のひとつかもしれない。それを築いてきた7年というか。でも、揺れが激しくなってスランプに陥ることもしょっちゅうありますよ。もっといいこと言いたいって思うときと、いや、もっとカッコいい音楽やりたいって思うときと、その揺れ幅が大きくなる瞬間があって。どっちかに一気に傾くと結構、しんどいです。
――デビュー前から、米・ニューヨークにある最も著名なクラブ、アポロ・シアターのステージに立ったという経歴もあり、堂々としているイメージがありましたが。
【清水】 肝は据わっていたかもしれないけど、求められて曲を作る苦しさとかは知らなかったですね。デビューするまでは、ただ勝手に曲を作っていただけなので、例えば“最高でしょ、この曲”って思って作った曲を聴かせても、「キャッチーさが足りない」って言われて、“何、キャッチーって?”みたいな。そこで初めて、もうちょっと広く受けるところを狙っていかないといけないんだってわかってきたり。今はそれを自然に考えてやっているけど、最初の頃は音楽でメシを食うっていうのは、そういうことかって勉強の日々が続いていました。しかも、そういう曲を作ったら作ったで、今度は商業的になりすぎて自分らしさの欠片もない曲になったりして。自由に曲作りをしていたデビュー前の感覚を、一気に変えないといけないっていうのは大変でした。
――方向性がわからなくなり、書けなくなったことは?
【清水】 もちろんありますよ。最初の頃は常にそういう感じ。会社が求めているものを書くべきなのか、その先のリスナーのために書くのか、そのバランス感がわからなかった。今は違いますよ。そんなのどっちでもいい、全員が納得する曲を書くしかないなって感覚で1周しちゃってます。当時は仕事としての音楽制作とは?ってところで、考え過ぎて苦しんでいました。
◆身内のスタッフに対しても常に優等生で疲れました
――“ぶれない”世界観を確立している印象がありましたが、裏ではそんな葛藤があったんですね。
【清水】 音楽性に関しては16、17歳にしては才能のあるコでしたからね。って自分で言っちゃってますけど(笑)、それよりも僕はインタビューが当時から上手かったと思うんですよ。今考えると、100点のインビューをするコでした。だから当時はすごく疲れました、完璧にロードマップを描いてしゃべっているから、上手に答えていたけど、僕自身は1本やるたびにヘトヘト(笑)。
――当時は100点を出すことも“清水翔太”を確立するための、ひとつの武装だったんですかね?
【清水】 そうですね。その武装感が当時は歌詞にも出ていて、優等生っぽかったかもしれない。こんないいヤツいるかよって(笑)。そのせいで3枚目の『COLORS』あたりは、すごく悩みました。俺、こんな優等生じゃない、むしろ逆だなって。でも、根はいいヤツだからややこしいっていう(笑)。
――ははは(笑)。
【清水】 当時はその“いいヤツ”の一番キレイなとこだけを、音楽以外での場面でも外に出していたので、けっこう苦しんだんです。身内のスタッフに対しても常に優等生で疲れました。でもだんだんと、違うものは違うって言ったほうがいいし、そうじゃないとアーティストである意味がないって思い始めたんですよ。あえて牙を剥く必要はないけど、どこに対しても自分が一匹狼で戦うぐらいの気持ちでいないとこだわりって部分では戦えないなと。
――そこは“いいヤツ”ですから(笑)。一方、シンガーとしてはカバ―アルバム『MELODY』がひとつの転機になった気がするのですが、ご自身はどう感じています?
【清水】 僕自身というより、周りのほうが“清水翔太”の印象が変わるきっかけになりました。いろんな方が「あなたの歌は本当に素晴らしい」って言ってくださったりもして。
――以前インタビューで、音楽プレイヤーにはゴリゴリのR&Bナンバーも美空ひばりさんの曲も入っていて、「どっちもソウルだ」と言っていたことが印象的でした。それもジャンル問わず、歌心を重要視しているスタンスに通じていますか?
【清水】 そうですね。そこが清水翔太の個性だと思っています。僕、スナックとかもよく行くんですよ。
――意外すぎる組み合わせ(笑)。
【清水】 地元のおばあちゃんやおじいちゃんを相手にロックするのが好きなんです。石原裕次郎さんや美空ひばりさんを歌って、おばあちゃんから「あんた、若いのにすごいね、歌手になれるよ」って褒められて、「がんばります!」って返す。そういうのが好きなんですよ(笑)。それこそ歌心がないと絶対できないことだから。自分より何倍も長く生きている人生の先輩たちを歌で感動させるって、一種の修行の場でもあって。だからジャンルを問わず、本当に歌の心を表現できる曲が好きで、和の情緒、日本語の情緒を理解したい。その上でR&BやHIP HOPも大好きだから、それを併せたところに自分にしかできないものがあるんじゃないかなと。それが“清水翔太”のすべてなんです。そのためには、できるかぎり英語を使わず、日本語で表現していきたい。そしてR&Bをポップフィールドで表現していくってことが、この7年のすべてです。
(文:若松正子)
◆スランプに陥ることもしょっちゅうある
――清水さんは「HOME」のときから、新人らしからぬ安定感と存在感がありました。ギターやピアノの弾き語りというスタイルがメインではない、歌1本の男性ソロアーティストというのも珍しかったです。
【清水】 HIP HOPやR&Bとか、自分で曲を作ってアレンジまでやっている人はいるけど、ポップフィールドでそこまでやるっていうのはパッと思いつくのは槇原敬之さんぐらいですかね。だから僕自身、チャレンジであり闘いであるっていう意識はあって。というのも、R&B的な考え方でいくとJ-POPとか、いわゆるポップフィールドでやっていくっていうのは、よく言う“セルアウト(売れ線に走る)”っていう考え方が強いと思うんですね。でも僕は考え方が逆で、自分のR&B感というものに自信があるので、それをポップフィールドにのせることがむしろこだわりというか。
――コアを持ちながら、マス(メディア)に挑戦していくと。
【清水】 でも、R&BやHIP HOPっていうバックボーンを持ちながら認められるっていうのは、非常に難しい。だからこそ、そこに挑戦していかないと意味ないじゃんって思うんです。メジャーなアーティスとしてやるからには戦い続けなければいけないんじゃないのって想いは、デビューの頃からずっとありました。
――実際、清水翔太ファンは、R&B好きの層と、じっくり歌に浸りたいポップス好きの層と両方あって、リスナーも幅広いですよね。
【清水】 そこは僕のオリジナルな個性のひとつかもしれない。それを築いてきた7年というか。でも、揺れが激しくなってスランプに陥ることもしょっちゅうありますよ。もっといいこと言いたいって思うときと、いや、もっとカッコいい音楽やりたいって思うときと、その揺れ幅が大きくなる瞬間があって。どっちかに一気に傾くと結構、しんどいです。
――デビュー前から、米・ニューヨークにある最も著名なクラブ、アポロ・シアターのステージに立ったという経歴もあり、堂々としているイメージがありましたが。
【清水】 肝は据わっていたかもしれないけど、求められて曲を作る苦しさとかは知らなかったですね。デビューするまでは、ただ勝手に曲を作っていただけなので、例えば“最高でしょ、この曲”って思って作った曲を聴かせても、「キャッチーさが足りない」って言われて、“何、キャッチーって?”みたいな。そこで初めて、もうちょっと広く受けるところを狙っていかないといけないんだってわかってきたり。今はそれを自然に考えてやっているけど、最初の頃は音楽でメシを食うっていうのは、そういうことかって勉強の日々が続いていました。しかも、そういう曲を作ったら作ったで、今度は商業的になりすぎて自分らしさの欠片もない曲になったりして。自由に曲作りをしていたデビュー前の感覚を、一気に変えないといけないっていうのは大変でした。
――方向性がわからなくなり、書けなくなったことは?
【清水】 もちろんありますよ。最初の頃は常にそういう感じ。会社が求めているものを書くべきなのか、その先のリスナーのために書くのか、そのバランス感がわからなかった。今は違いますよ。そんなのどっちでもいい、全員が納得する曲を書くしかないなって感覚で1周しちゃってます。当時は仕事としての音楽制作とは?ってところで、考え過ぎて苦しんでいました。
◆身内のスタッフに対しても常に優等生で疲れました
――“ぶれない”世界観を確立している印象がありましたが、裏ではそんな葛藤があったんですね。
【清水】 音楽性に関しては16、17歳にしては才能のあるコでしたからね。って自分で言っちゃってますけど(笑)、それよりも僕はインタビューが当時から上手かったと思うんですよ。今考えると、100点のインビューをするコでした。だから当時はすごく疲れました、完璧にロードマップを描いてしゃべっているから、上手に答えていたけど、僕自身は1本やるたびにヘトヘト(笑)。
――当時は100点を出すことも“清水翔太”を確立するための、ひとつの武装だったんですかね?
【清水】 そうですね。その武装感が当時は歌詞にも出ていて、優等生っぽかったかもしれない。こんないいヤツいるかよって(笑)。そのせいで3枚目の『COLORS』あたりは、すごく悩みました。俺、こんな優等生じゃない、むしろ逆だなって。でも、根はいいヤツだからややこしいっていう(笑)。
――ははは(笑)。
【清水】 当時はその“いいヤツ”の一番キレイなとこだけを、音楽以外での場面でも外に出していたので、けっこう苦しんだんです。身内のスタッフに対しても常に優等生で疲れました。でもだんだんと、違うものは違うって言ったほうがいいし、そうじゃないとアーティストである意味がないって思い始めたんですよ。あえて牙を剥く必要はないけど、どこに対しても自分が一匹狼で戦うぐらいの気持ちでいないとこだわりって部分では戦えないなと。
――そこは“いいヤツ”ですから(笑)。一方、シンガーとしてはカバ―アルバム『MELODY』がひとつの転機になった気がするのですが、ご自身はどう感じています?
【清水】 僕自身というより、周りのほうが“清水翔太”の印象が変わるきっかけになりました。いろんな方が「あなたの歌は本当に素晴らしい」って言ってくださったりもして。
――以前インタビューで、音楽プレイヤーにはゴリゴリのR&Bナンバーも美空ひばりさんの曲も入っていて、「どっちもソウルだ」と言っていたことが印象的でした。それもジャンル問わず、歌心を重要視しているスタンスに通じていますか?
【清水】 そうですね。そこが清水翔太の個性だと思っています。僕、スナックとかもよく行くんですよ。
――意外すぎる組み合わせ(笑)。
【清水】 地元のおばあちゃんやおじいちゃんを相手にロックするのが好きなんです。石原裕次郎さんや美空ひばりさんを歌って、おばあちゃんから「あんた、若いのにすごいね、歌手になれるよ」って褒められて、「がんばります!」って返す。そういうのが好きなんですよ(笑)。それこそ歌心がないと絶対できないことだから。自分より何倍も長く生きている人生の先輩たちを歌で感動させるって、一種の修行の場でもあって。だからジャンルを問わず、本当に歌の心を表現できる曲が好きで、和の情緒、日本語の情緒を理解したい。その上でR&BやHIP HOPも大好きだから、それを併せたところに自分にしかできないものがあるんじゃないかなと。それが“清水翔太”のすべてなんです。そのためには、できるかぎり英語を使わず、日本語で表現していきたい。そしてR&Bをポップフィールドで表現していくってことが、この7年のすべてです。
(文:若松正子)
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2015/03/01