正義と悪魔
		
プロローグ
9月18日


彼女は混濁する意識の中で悪夢を見た。
どこかの知らない街で、どうしても家へ戻れない夢である。
たまに走ってくるタクシーは全部満車で、近くの駅の所在も分からない。
歩き回るとたまに人に出会うが、誰も口を開かない。
		
何時間も歩いていると、タクシーはもっとまばらになり、人の目が悪意に充ちてくる。

・・・・・・しばらくして、やっと目を覚まし、身体が麻痺して動かないことに気付いた。
激しい頭痛もする。
腕を縛られ、目隠しもされていた。
薄いシートに横たわっているため、床の感じがダイレクトに伝わってくる。
(コンクリートの床?)
		
声を上げたくても何故か声が出てこない。
耳をすますと、かすかに車の走る音が聞こえた。
(誰か何か言って)
期待していた人の声はそれからしばらくしても聞こえてこない。
(ここはどこだろう?)
状態に慣れてきたのか、少し意識が働いてきた。
彼女は少しずつ今の状況を冷静に考えた。
(犯罪に巻き込まれた!)
そうとしか考えられない。
(何故、こんなところに?)
		
そう考えたが、思い出せない。
誰かと一緒にいたはずだ。
ぐったりして、車に乗せられた記憶がある。
誰と一緒だったのか、どう考えても思い出せない。
そして、このようにされる理由が分からない。
(私、殺されるの?)
状況を考えると、そういうことになるだろう。
身体が震えだした。
その時、入り口が開く音がした。
(誰だろう? ひょっとしたら助けが来たの?)
		
彼女は願った。
しかし、暗闇の中で、相手が放つ雰囲気で危険を察した。
また、意識が混濁してきた。
彼女は悲鳴を上げたくても身体が麻痺して声にならない。

「可哀想だが、死んでもらうよ」
頭の中で、誰かの声がしたように感じた。
(お願い。助けて。私が何をしたというの・・・・・・)
心の中でさえ最後まで言い終わらないうちに、彼女は腕に注射針のような刺激を感じた。
		
そして、すぐに意識が消失していく。
(私は死ぬの?)
数十秒後、彼女は無の世界へ落ちていった。

男は、彼女の手を胸のあたりに合わせ、目隠しとさるぐつわを外し、せめて美しさを少しでも残そうとした。
男の眼から涙がこぼれた。
しばらく涙が乾くのを待ち、服装の乱れを直し、男はそこから出ていった。
		
第1章
9月15日 AM11:00 成田空港到着ロビー



「さっきのフライトのはずだけど」
島崎秋穂は、9月15日に成田空港の到着ロビーで、アメリカ人女性の哲学人間学博士を待っていた。
9月中旬の成田空港の到着ロビーは、大勢の人で賑わっていた。午前11時現在、日本の首都圏の気温は、夏同様30℃を超え
		
ており、湿度も70%以上で、不快指数は高かった。まだまだ残暑が厳しく、秋の気配にはほど遠かった。
秋穂は大学を卒業後、大手出版社・論壇社に就職、その出版部に勤める26歳の女性である。
背は155センチと小柄で、白い洋服を好んで着るためか年齢よりも若く見られることが多かった。ひとつに束ねた髪もシンプルで純粋な印象を相手に与える。
会社の中では、いわゆる科学本を担当し、いくつかのスマッシュ・ヒットも出してきた。日本人は数学や科学が苦手という
		
俗説には、全くくみしていない。難しく深淵なテーマを分かりやすく解説すれば、知的な好奇心を持っている人たちには受け入れられると信じている。今日、来日するUCLA准教授の著書『人間とは何か』は、それを証明して余りある結果を出していた。日本でもすでに30万部を超えて売れ続けている。

「こんな抽象的なテーマの本を出して、誰が買うんだ?」
出版の担当役員は、最初こそ心配顔をした。
「事実の探究こそ出版社の仕事です。グーグルの検索では手に入らないものを提供すべきです」と秋穂は主張し、社内を説得し
		
て出版にこぎつけた。
もっとも30万部を超えるヒットになってからは、誰もが、自分が話を持ってきたみたいな顔をしている。
今回は会社が全額負担するという条件で、1週間の来日を要望した。
サイン会に、秋穂の母校・慶明大学での短期講義、一般社団法人日本社会人間学協会で特別講演と忙しいスケジュールだが、意外にも即答でOKをもらった。

「あ、彼女だ」
		
秋穂は遠目からもすぐにわかった。
姿勢正しくこちらに歩いてくるノーブルな顔立ちの女性が目に入った。肌の色は少し褐色がかった白、髪はダークブラウン。長さはセミロングで、ライトブルーの目に知性と自信をのぞかせている。白とベージュの中間色のスーツはシルエットがシャープで、身体のラインを控えめながら強調している。
(プラダかな?)
秋穂は、彼女が雑誌で言っていた好きなブランドを思い出した。
彼女の名前はエリザベス・ダニエルソン。
31歳にしてUCLAの教養学部哲学人間学科准教授を務める、
		
新進気鋭の学者である。
「ようこそ、ダニエルソン博士」
秋穂は笑顔で手を伸ばした。
「やっと会えたわね。アキと呼んでいい? 私のことはリサと呼んで」
二人は笑いながら握手をした。
リサの笑顔は優しさに溢れていて、秋穂は一目で好きになった。
もちろん、メールや電話でのやり取りや、ネット上でお互い写真も見てはいたが、実際会うと親近感がぐっと増す。
「リサ、フライトはいかがでした?」
		
歩きながら秋穂が尋ねた。
「快適だったわ。
それから、私の母が日本人であることは知ってるわね。
日本滞在中は日本語を話すわ」
秋穂は、リサのりゅうちょうな日本語に感心しつつ、「日本は何回目ですか?」と日本語で聞いた。
「実は初めてなの。母は若い時、アメリカで医師の仕事をしていて、忙しい日々を送っていたわ。
子どもを日本に連れてくる時間的余裕は無かったみたいね」
(なるほど)
		
秋穂はリサが来日をOKしてくれた理由が分かった。
「これからまずホテルにお連れします。そこで、部屋に昼食を運ばせますから少し休息してください」
「ありがとう」とリサ。
「その後ですが、村木教授がお会いしたいと言っています。お疲れだったら断りますが」
リサの鞄の一つを持ちながら聞いた。
「大丈夫よ、あなたの母校を見てみたいし、もちろんミスター村木にも会いたいわ」
リサは笑顔で答えた。
		
「分かりました。道はあまり混んでないので、ホテルには1時間半もあれば着くと思います」

空港の外には、会社が用意したエスティマが待っていた。
運転手は倉持昇太。30代半ばのしっかりした体躯の男性であった。
(格好いい)
秋穂の第一印象だが、そこはおくびにも出さない。
車のエンジンはハイブリッドで、低速時は電気、高速になるとガソリン・エンジンに切り替わるタイプだ。
		
秋穂は運転手の横に、リサは左の後部座席に座った。
倉持運転手にハイブリッド・カーの説明を受けると、
「Great」
とリサがつぶやき、エスティマは静かに動き出した。
「9月なのに暑いですよね。今年は少し異常なんです」
秋穂は前の席から体を後ろに向けて話をした。
「世界的に異常よ。10年後に人間がこの星で生きていけるのか不安になるわね」
「リサ、聞いてもいいですか? あなたの哲学人間学は環境問題が出発ですよね?」
		
「アキ、いきなり質問ね。でも、人間の自己制御は矛盾に満ちているの。サスティナビリティ(生存可能性)は重要なテーマの一つではあるけれど、それが出発ではないわ」
リサの声は優しい響きがした。
(リサからいろんなことを学ぶ、いい1週間になりそう)
秋穂は楽しくなってきた。
		
第2章
9月14日 マサチューセッツ州 ボストン



ここはボストン郊外にあるドレイク総合病院である。全米最大の病院グループを経営するレイセオン・ヘルス・ケア(RHC)社の中心的病院であり、創業者兼CEOであるゴードン・ドレイクの執務室もここにある。
		
天井の高さは4メートル。一面がガラスに覆われている。
大理石とマホガニーをふんだんに使ったアールデコの部屋に家具。
壁にはブラックそしてピカソの絵が飾ってある。
彼はキュビスム絵画が好きである。
また、シュルレアリストのミロやアメリカの抽象派・ポロックが並び、この空間の持ち主の複雑な思考を表している。

ゴードンは、70歳。白髪の老人だが、恰幅のいい身体と熟慮の深さを思わせる表情が特徴で、接する人を圧倒する存在感の
		
持ち主である。
若い時、ハーバードで医師の免許を取得し、ボストン総合病院で精神医療に携わった。多くの患者に接して、人間の弱さを徹底的に学んだ。
その後、MBAと医学博士号を両方とも取得するプログラムに参加して、ビジネスにも興味の範囲を広げた。
医学博士号とMBA取得後、病院経営への株式会社の参加制度を活用して病院の実業化を始めた。30年前の話だ。
会社設立後、ちょうど株式会社の病院経営に社会的関心が集まっていたことも奏功して、有力なベンチャー・キャピタル数社
		
から、彼にとっていい条件で投資を受け入れた。
豊富な資金力を背景に、いくつも病院のM&Aを繰り返し、売上高と利益を伸ばし続けた。
20年前にはニューヨーク株式市場に上場を果たし、ベンチャー・キャピタルの友人たちに多額のキャピタル・ゲインをもたらし、創業者であり経営者の彼個人もストック・オプションを行使して150億円を超えるキャッシュを取得した。
会社は、上場で得た資金を元手に更に多くの病院、そして医療機器会社や製薬の開発を行う会社までも買収して、医療界のコングロマリットとして君臨するに至った。
		
現在、年間売上高2兆円、純利益1200億円を上げる巨大医療グループのトップであり、独裁者でもあるのがゴードン・ドレイク医学博士(MD)である。
彼の病院組織は循環器系、整形外科系、精神科系に経営資源を集中させて、多くの手術数をこなすと同時に、膨大な量の精神科薬剤を処方していた。
医療現場に市場原理を持ち込んだことで、奇跡的な成長はとげたが、一部にはゴードンの強引な手法を非難する声があった。
しかし、彼はそのような世間の妬みには全く関心を払ってこなかった。
		
現に彼を賛辞・崇拝する者も多く、
「医療界に君臨するカリスマであり救世主である」
と持ち上げるメディアもいた。
(しかし)
ゴードンは怒りの表情を浮かべた。
マホガニーのデスクに置いてある、彼を医療界のカリスマと持ち上げた雑誌と、「医療行為に市場原理を持ち込んだ恐怖の実態」と見出しがつけられ、彼を糾弾しているニューヨーク・ニュース紙を眺めた。
やがて、新聞を手に取ると、その記事を読み始めた。
		
《RHC社の病院は、マサチューセッツ、ニューヨーク、コネティカット、ニュージャージー州などを中心に約200以上に及んでいる。
しかも、RHC社の病院が寡占状態になっている地域が多数あるのだ。
不思議なことに彼らは病院を買収後、廃業させるということを、この5年間だけで最低20件以上行っている。
結果として、他の病院に行く選択肢を奪われた人を相手に、RHC社の病院は通常の病院と比べて約2倍の報酬を請求しているとみられる。
		
循環器科の患者一人あたりの手術数も他と比較して75%以上多いというデータもある。
〈・・・・・・〉
株式会社の病院経営については、競争原理を医療に持ち込み、イノベーションを起こすべきとのポジティブな意見ばかり強調されてきた。
しかし、公共性の高いサービスに市場原理を持ち込むリスクにはもっと耳を傾けるべきだ。
公平な正義が働かない状況下では、神の手も機能しないはずだ。
現在、RHC社の元患者たちは、故意に行われた過剰医療に
		
基づく医療費返還請求裁判を闘っている。早ければ来月にでも判決が下されるであろう。その結果が待たれる》

新聞を静かに置き、
「ノーラ、デヴィッドを呼んでくれ」と内線で秘書に指示を出した。
「目の前に来ています。すぐに部屋に入れますか?」
とノーラが尋ねた。
「そうしてくれ」
会社の法務担当役員デヴィッド・ストッパードは、ノックを
		
して部屋に入った。
ドレイク医学博士は椅子に座ってこちらを見ている。
その目にはいつも射すくめられる。
デヴィッドは45歳。金髪に青い目、典型的なアイビーリーグ・ファッションだ。
貧しかったが成績優秀だった彼は、高校時代にドレイク奨学資金を受けた。大学、ロースクールまで、学業資金のみならず生活費全般をドレイク奨学資金の特待生として享受した。
弁護士になり、その後、名門の法律事務所で勤務しているときもRHC社からの依頼が彼の実績の中心を占めた。当たり前の
		
ように、ドレイク医学博士の意向に従い、RHC社の法律部門に入り、今は同部門のトップを務める。
昨期からボード・メンバーの一員でもあったが、ゴードンには絶対的な忠誠を誓っていた。
ドレイクは恐れる対象としても充分な存在である。
椅子を勧められ座ると、ノーラがコーヒーをデスクに置いた。
「裁判の展望を聞こう」とゴードン。
「ゴードン、あなたにいまさら説明は不要ですが、我々の行ってきた全ての医療行為は合法的です。
医師がそれぞれの状況に応じて最適と思われる医療行為を
		
行ってきました。
エビデンスもしっかり管理されています。
一方、彼らの主張は、《我々が故意に過剰医療を行い、彼らに不要な医療費を支払わせた。
よって、その不要な医療費の返還を請求する》ですから、理屈のうえからは負けるはずはありません。
最終的な判決は我々の主張どおりに落ち着く可能性は高いと判断しています」
「しかし」と言って、デヴィッドはゴードンを見た。
ゴードンは先を促した。
		
「しかし、陪審員制度は不確実性が高く、予想が困難です。
可能性は高くはないですが、本来、出るはずのない結果になることも考えなければなりません」
「和解がベストということか?」
デヴィッドの目を見ながらゴードンが言った。
「もし彼らと和解したら、当社の病院で診療を受けた者に、次から次に提訴されるリスクが生じます。医療保険会社は我々との取引実績もあり常識的な反応をすると思いますが、株式市場の世論の動向によっては損害賠償をする危険性も出てきます」
・・・・・・ゴードンは熟考した。
		
「まず、裁判で負ける可能性は低い。
これは同意だな?」
「同意します」
「しかし、万が一にも負けるわけにはいかない。100%近くまでリスクヘッジするために、何かをすべきである。
これも同意か?」
コーヒーカップを持ち上げてゴードンが尋ねた。
「同意します」
デヴィッドは頷きながら返答した。
「やはり彼女を取り除くべきだろうか?」
		
相手の目を見ながら決断を促す。
誰かに自分の意図通りに決断させる、これがゴードンのやり方である。
「エリザベス・ダニエルソンが中心となって、原告団がまとまっています。
彼女を排除すれば、彼らはバラバラになります。
勝てる見込みの低い裁判を闘うのは大変です。
そして、時期をみて、我々の方から名誉棄損に基づく損害賠償を逆に請求します。
多くが戦意喪失するか、リスクヘッジのために、双方の提訴を
		
取り下げる我々の要求に応じるでしょう」
デヴィッドは意図を理解しつつ応じて見せた。
「では、お前の考えるようにやれ」
仕方ないというような仕草でゴードンが言った。
「わかりました。幸いFBIの目から離れた日本に先ほど到着しました。
そこで終わらせます」
「失敗する可能性は?」
「準備は終わっています。
失敗はないと考えます」
		
「あの女、自分を聖女とでも思っているみたいだな?」
ゴードンへの答えが見つからなかった。
「時間がない。急ぐことだ」
彼が会話を終了させたいことに気付いた。
「分かりました」
やや緊張気味にデヴィッド・ストッパードは答えた。
(失敗したら私も終わりだ……)


第3章に続く...