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東宝“単独製作”『シン・ゴジラ』で露呈した製作委員会方式の功罪
企画段階でバイアスがかけられることが多い製作委員会方式
その東宝による単独製作が、今回の興行に好影響を見せたという説がある。製作委員会であれば、多くの企業が中身にいろいろ注文をつけると、まことしやかに言われる。お金を出すから、口も出すということらしい。だが今回は単独だったから、監督を筆頭とした製作陣は、東宝1社と対峙するだけでいい。東宝の意向を汲めば、あとは自分たちが伸び伸びと製作に専念できる。製作の過程で、いわば自由さがある程度担保できた。これが作品の成果となり、大ヒットに結びついた。一理あると思う。
だが、各企業が製作に注文をつけるという事実は、どこまで信憑性があるかといえば、それはかなり曖昧なところもある。あくまで出資に専念し、中身への注文はあまりしないという意見も聞くからだ。だが、とここで思う。製作委員会方式は、そもそものスタートから、企画にバイアスがかけられることが多いのではないかと。各企業に出資を募る以上、自ずと安全パイ路線、つまり危ない要素がある題材や、過激な中身をもつ企画は排除される。そんな気がしてならないのだ。
日本映画界に投げかけられた、東宝が単独製作で成し遂げた意味
これを東宝単独の製作で成し遂げた意味は、今の日本映画界にとって、計り知れないほど大きい。もちろん、製作委員会方式で作れないこともないとは思う。だが、庵野秀明総監督をはじめとするスタッフの力量に賭け、10億円以上とも言われる製作費を捻出し、さらに高額な宣伝費を投入した。興行の成果がどこまでか判断できないなかで、これらをすべて東宝が単独で担った。1社で責任を負うことが重要なのである。
製作委員会方式はこれからも、当分の間は邦画製作の主流であり続けるだろう。製作のリスクヘッジ、宣伝面での効果など、多くのメリット部分が、まだまだ存分にあるからだ。だが、先ほども指摘したように、その弊害は実はあまり目立たないところに出てくる。最大公約数的な企画の無難さ、凡庸さのなかから、そつのない娯楽作が連発されていくということである。そうした作品も必要ではあるが(というより、こちらが邦画のヒットの主流)、しだいにマンネリ化を呼び起こし、邦画はいつの間にか、チャレンジ精神を忘れていく。これを恐れるのだ。
『シン・ゴジラ』の空前の大ヒットは、日本映画界の製作(委員会方式)構造を、今一度考えさせる機運を与えてくれたのではないか。作品の中身や興行面ばかりが、映画の成果ではない。映画における荘厳なゴジラの問答無用のすさまじい放射光は、実は映画界にも、その矛先が向いていたことを知るべきだろう。
(文:映画ジャーナリスト・大高宏雄)