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T.M.Revolution、デビュー20周年を振り返る「乱気流みたいな20年」

 T.M.Revolutionがデビュー20周年を迎え、全シングルを完全網羅したオールタイムベストアルバム『2020 -T.M.Revolution ALL TIME BEST-』を5月11日に発売。大ブレイクを果たした衝撃の90年代から今世紀まで、常に走り続けているT.M.Revolution。そんな“彼”への想い、そして西川貴教としての本音など、“常に乱気流だった”という激動の20年間を振り返ってもらいました。

ヒット曲連発後、周りの変化についていくことに精一杯だった

――20年間の軌跡が詰まったベスト盤のラインナップを改めて聴いてみて、どう思いました?
西川貴教 デビュー当時の曲とかは、それなりに時代を感じさせる音だなと思いましたね。ただ、10周年と15周年のときに過去のアーカイブのセルフカバーをやったりしていたから“ずいぶん聴いてなかったな”って曲は意外となかったです。変化を感じたのは楽曲うんぬんよりも歌に対する自分のアプローチで、5年ぐらいのサイクルでずいぶん変わってきたなと。特にここ5年ぐらいに急激に変わった感がします。

――変わった理由は?
西川貴教 僕の場合、意図してやっていたことなんだけど、発売する音源とライブでお届けする音との乖離(かいり)があって、CDとは全く違うものになるんですね。だからライブに来られた方が、呆気にとられることも多かった。だったら、はなからそれを音源にしちゃおうみたいな感じで、最近はパッケージするときの感覚も変わってきたというか。あえて変えてようってところもあって、そのためには歌のベースになるものをもっと豊かに聴かせようとか、ここ5年くらいはそういう方向性に変わっていったんですね。だから良くも悪くも10周年、15周年のセフルカバーはいい影響だったと思う。これがあったからこそ、自分にとってより良い方向へ転化していけたんだと思いますよ。

――でも西川さん基本的には、いわゆる“振り返り”はしないって言っていましたよね。
西川貴教 はい。興味ありません(笑)。

――そこを今回はあえて振り返っていただきたいのですが(笑)。例えば「HIGH PRESSURE」や「WHITE BREATH」のヒットでいきなり大ブレイクしたときはどんな気持ちでした?
西川貴教 正直、覚えていないんです。全く忘れているわけじゃないけど、周りを取り巻く環境の変化が大きくて、僕自身はあまり劇的に変わらなかった気がする。当時はテレビの影響力が今以上に大きかったから、僕の顔と名前が一致する人がいきなり増えるっていう感覚がすごくあって。例えば、昨日までは誰の目も気にせずスーパーでお豆腐とか買っていたのに、急に“あ、あの人……そうじゃない?”って目で見られたりとか(笑)。あと、ツアーでライブ終わりにメンバーやスタッフとご飯を食べに行くと、地元の人が声をかけてくださったり、なかには冷やかしてくる人もいたりして。そういう状況に正直、自分もとまどうことは多かった。だから、僕自身の気持ちの変化よりも周りの変化についていくことに精一杯でした。

――当時はT.M.Revolutionの歌もパフォーマンスもビジュアルも、すべてが衝撃的でした。これまで見たことがない唯一無二のタイプのアーティストが出てきたと誰もが感じたと思うのですが、自身はその自負はありましたか?
西川貴教 自負というよりは今もそうだけど、まず男性のソロのアーティストは、比較的パイの数が少ないじゃないですか。そのなかでT.M.Revolutionって名称もそうだし、いろんなところにツッコミどころ満載だったから(笑)、そこらへんが注目されたんじゃないですかね。以前だったら「どう名前をお呼びすればいいですか?」ってこともあったし。そういう意味では時間をかけてだけど、T.M.Revolutionというアーティストと、プロデュース兼パフォーマンスをやっている西川貴教の棲み分けをしていただけるようになったかなと。

いつ辞めて、終わりにしようかと考えていた

――当時は西川さんも、両者の棲み分けに対するとまどいはあった?
西川貴教 もちろんありました。今だって「T.M.Revolutionこと西川貴教」って呼ばれたりしますが、“こと”って要はイコールじゃないですか。でも厳密にいうと違いますからね。そういう意味では早い段階からそこを切り離していくために努力したり、いずれはセパレートでちゃんと見てもらえるようにしていこうっていう布石は早くからあったと思います。例えばデビューした翌年からスタートした『オールナイトニッポン』では、西川貴教の名前で番組をやらせてもらえて、そこらへんから別々に見せる意識は始まっていた気がします。

――そこを明確に分けようと思った理由は?
西川貴教 最初から自分の中でインターフェイスをマルチ化するって構想があったんです。なぜかというとT.M.Revolutionはいわゆるソロアーティストという概念からはちょっと外れた特殊な存在であり形態で、自分の内側にあるもっとコアな音楽性を表現する形態とは違っていたから。

――T.M.Revolutionは西川さん自身ではなく、西川貴教が作り出した別の存在なんですね。
西川貴教 そう。T.M.Revolutionは自分の中のスイッチを入れて“召還される人”なんですよ。それを明確にして、より具体的に実行に移したのは10周年ぐらいからだと思う。

――そんなT.M.Revolutionを辞めたいと思ったことはあります?
西川貴教 ありますよ。2003年にレーベル移籍をして、そのタイミングで初めて海外でライブを行ったんですが、その手前の何年かはいつ辞めよう、いつ終わろうってことしか考えてなかったですもん。

――それはなぜ?
西川貴教 あまりにも急激な状況の変化に対して当事者が思うことと、周りのスタッフが感じることがどんどん噛み合なくなってきたんです。それぞれがT.M.Revolutionをどうしていくか迷いがあって、そんななかで関係を続けていくべきなのか、お互いに楽しくないならやるべきじゃないんじゃないの? って思っていた。あとスタートから一気に強い印象を持ってもらった分、それ以上の刺激の強いものを目指すことの大変さに良くも悪くも全員がハマっちゃったんです。それで、疲れちゃってた。そんな状態のとき移籍と同時に海外公演をやって、そこで全く違う景色を見られたことは大きかったですよね。今みたいにネットが普及している環境でもなかったのに、自分のことを待ち応援してくれる人がこんな遠い場所にもいるんだってわかって、自分の一存で勝手に辞める、辞めないって決めちゃいけないんだなって思って。より気持ちよく続けるためにどうしたらいいのかを考えていこうっていうスタンスに10周年以降はなっていった気がします。

――じゃあ、20年を振り返って、もっとも苦しかったのはその時期ですか?
西川貴教 そうですね。2001年ぐらいから2003年ぐらいまでの時期は、何を信じて何を目指していけばいいのかみたいなところはものすごくありましたね。まぁでも歴史って“勝者の歴史”って言われるだけあって。やっぱりね、良くも悪くも続けられたからこうやって語れるし、聞いてもらえるわけですよ。だっていなくなっていたら、身も蓋もない話ですから(笑)。こうやって過去の話を人様の前でできること自体、ありがたいことだなと思います。

――そう考えると20年間、続けることってすごいことですよね。しかも一線で。
西川貴教 僕、全然一線じゃないから(笑)。浮いたり沈んだり、ものすごく激しい乱気流みたいな20年で、穏やかなことなんて一度もなかったですよ。

――落ち着いて平和だったことなぞなかったと。
西川貴教 まったくない! ずっと溺れているみたいな20年で、常に明日をも知れぬ身とはこのことだなっていう感覚。だから逆に毎朝、朝8時に起きて5時に退社してみたいな人生って、どんなだろうな? って思いますよ。
T.M.Revolution オフィシャルサイト(外部サイト)

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