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小橋賢児、俳優から『ULTRA JAPAN』の立役者まで紆余曲折を経てのいま

 子役時代より俳優として活躍しているなか、活動を休止し渡米。帰国後は、映画監督としてデビュー。さらにモンスターイベント『ULTRA MUSIC FESTIVAL』のアジア上陸の立役者、クリエイティブディレクターを務めるなど、現在は、多岐に渡る活動を行っている小橋賢児。華々しい舞台の裏側で彼が抱えていた葛藤、栄光と挫折、光と影、出会いと別れ、生と死の間……相反する様々な経験をしてきた彼のこれまでの活動から現在に至るまで、そして、今年9月に開催される『ULTRA JAPAN』について語った。

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自分自身をごまかしきれなくなり渡米

――俳優として活躍しているなか、2007年、突如渡米され、すべての活動をストップされましたが、その理由は何だったんですか?
小橋 子供の頃から俳優として20年ほど活動をしてきたのですが、自分が本当にやりたいと思ったことがあっても、メディアの世界にいるからと、周りから制約され、どこかで我慢してしまう自分を作り上げてしまうようになりました。子供の頃の自分は、後先を考えず、思ったことをそのまま行動に起こしていたんです。そもそも僕が俳優になるきっかけも、バラエティ番組のオーディションに観覧募集と勘違いして応募したことでした(笑)。そのときの衝動がその後の自分へつながっていきました。でも、気付くと後先を考えて、辞めておこうって。今思えば、日本だからとか、芸能人だからとすべての環境を言い訳にして、自分を閉じ込めていただけなのかもしれないです。でも、漠然と自分の30代を想像したときに、今の延長線上で見える未来でしかない、それでいいのかって。自分が気づいてなかった、忘れていた感覚を取り戻したいなという、リハビリのような感覚で旅をはじめました。実は渡米する前にも、いろいろ旅はしていたんですけど、なかでも26歳のときに行ったネパールでの出会いが衝撃的でしたね。

――ネパールで決定づける出来事があったと。
小橋 現地で同い年の男の子と仲良くなって、彼の家に招待してくれたんです。決して裕福とは言えない経済状態の中で、奥さんと娘さんと3人で暮らしていて。ある日僕が「夕日を撮影するのが好きなんだ」といったら、夕日がきれいに見える場所に連れて行ってくれたんです。そのときにふと彼の背中を見ていたら、思わず号泣しちゃって。体は僕より小さいのに、彼の背中がものすごく大きく感じられて。人としての厚みや人間力がにじみ出てるというか。必死に今を生きようとしている彼を目の当たりにして、自分自身に嘘をついて、今の環境を守っている自分とは比べ物にならないなって。日本に戻ってきたときに、今までだったら自分でごまかしきれていた部分がごまかしきれなくなって。

――自分自身に対して、限界を感じたと。そこからアメリカに行かれたのはなぜ?
小橋 そのときの僕は英語を話すことができなくて、ネパールでもボディーランゲージでコミュニケーションをとっていたので、まず最低限の生活用語を覚えることだと、アメリカに向かいました。でも、コミュニケーションをとることが目的というよりは、まだ見たことのない世界を知りたい、自分自身の目で感じたいという思いのほうが強かったですね。東京にいると、楽しいものがいっぱいありすぎて、夕日ひとつ見ることも、星空を見ることも忘れがちで。でも、自分の心から聞く言葉やそういった自然から受けたインスピレーションが実は大事なんじゃないかって気付いたんです。

築き上げたものを手放すことへの恐怖はなかった

――でも、それまで築き上げてきたものを一気に手放すことになるわけですよね。そこに対しての怖さはなかったですか?
小橋 なかったですね。今だから整理して話せますが、当時は未来のためにこうしていこうというのではなく、今の状況がいてもたってもいられなかったという。こんなんじゃなかったのに、こんな自分になっちゃったんだって。

――とにかく当時の自分が許せなかったと。
小橋 渡米するときに、人生初の丸坊主にしたんですが、自信がないときの自分の顔って、まあひどいよなって。毎日鏡見ながら、俺ってこんなにひどかったっけって(笑)。

――自己嫌悪に陥ると。
小橋 渡米する1ヶ月前から友達との連絡も絶って、全てを捨ててアメリカに渡ったものの、正直スッキリサッパリしてきたというよりは、まず目の前の自分を打破したいっていう思いだけでした。こうすればこうなると考えるよりも、とにかく中途半端でいることに疑問を感じていて。

――そんななかで、アメリカではどのように過ごしていたんですか?
小橋 2つだけ向こうでやることを決めていたんです。1つ目が、アメリカ人の友達を作って、春休みの間にアメリカを横断すること。2つ目がアメリカ人の友達と英語でケンカができるようになること。カリフォルニアとかに行くと、サーフィンとかして遊び過ぎちゃうだろうから(笑)、あえて日本人がいない冬のボストンを選びました。ボストンには有名な大学が多く、電車の中でもみんな必死に勉強しているので、この環境は自分に適しているなって。毎日朝の4時に起きて、自分で英語の勉強をしてから、昼間は英語の学校に行って、そのあと個人レッスンを受けて……といった感じで、夜中の2時ぐらいまで徹底的に英語の勉強をしました。

――逃れられない環境をみずから作り、2つの目標を叶えることができたと。
小橋 個人レッスンをしてくれていた先生と大学生の男の子と友達になって、3人でメキシコ経由でアメリカ横断しました。24時間毎日一緒にいれば、お互いの嫌な面も見えて、そりゃケンカするよねって(笑)。

――偶然の産物的な。
小橋 偶然の産物と言えば、ゴール地点がマイアミで。そのときに偶然『Winter Music conference』が開催されていて。そこで仲良くなったDJに『ULTRA MUSIC FESTIVAL』を教えてもらったことから、世界にはこんな楽しい音楽のイベントがあるんだってことを知り、それを日本の人たちに発信したいという気持ちになりました。

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