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今月11日に亡くなった作曲家・三木たかしさんの葬儀・告別式が20日、東京・港区の増上寺光摂殿にてしめやかに営まれ、タレントの萩本欽一、作詞家の荒木とよひさが友人代表で弔辞を述べた。萩本は「三木さんはずっと僕を友達のように思ってくれたけど、僕の中では先生だったの。偉大すぎた」と唇をかみ締めながら最後の別れを偲んだ。
萩本は「三木さんを友達と思ったのは最近です。『紫綬褒章のパーティーに来てね。絶対だからね』。その言葉が友達のようでした。けど、正直言って友達じゃない。以前の気持ちに戻りたい。三木先生、ずっとありがとうございました」と最後は、尊敬する“三木先生”として送り出した。
三木さんと共に黄金コンビとして数々のヒット曲を生み出してきた荒木は、三木さんとの思い出話や好みの違いを並べ「でも1つだけ、今年も咲いた桜の花を想う気持ちは一緒だった。最後に病室で会った時、筆談で『ありがとう。ごめんね』と書いたのは何だったの? これからお別れ。いろいろありがとう。でも、ごめんねというのは僕の方だよ? たかしちゃん、さようなら」と遺影に語りかけ、号泣した。
告別式は三木さんの師匠で作曲家の船村徹が葬儀委員長を務め、歌手の五木ひろしら関係者700人が参列。棺には愛犬・ミルキーや妻の渡辺恵理子さんとの2ショット写真、妹で歌手の黛ジュンのCD、「桜の花よ 泣きなさい」のジャケット写真なども収められた。
三木さんは船村の指南のもと、作曲家を志し、1960年代にデビュー。「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「つぐない」(テレサ・テン)、「もしも明日が…。」(わらべ)など多数の名曲、ヒット曲を生み出した。シングル総売上枚数は1948万枚、これまでにオリコンランキングにランクインした作品数は188作。2005年に紫綬褒章を受章し、日本作曲家協会理事長を務めていた。
今月11日に亡くなった作曲家・三木たかしさんの葬儀・告別式が20日、東京・港区の増上寺光摂殿にてしめやかに営まれ、タレントの萩本欽一、作詞家の荒木とよひさが友人代表で弔辞を述べた。萩本は「三木さんはずっと僕を友達のように思ってくれたけど、僕の中では先生だったの。偉大すぎた」と唇をかみ締めながら最後の別れを偲んだ。
萩本は「三木さんを友達と思ったのは最近です。『紫綬褒章のパーティーに来てね。絶対だからね』。その言葉が友達のようでした。けど、正直言って友達じゃない。以前の気持ちに戻りたい。三木先生、ずっとありがとうございました」と最後は、尊敬する“三木先生”として送り出した。
三木さんと共に黄金コンビとして数々のヒット曲を生み出してきた荒木は、三木さんとの思い出話や好みの違いを並べ「でも1つだけ、今年も咲いた桜の花を想う気持ちは一緒だった。最後に病室で会った時、筆談で『ありがとう。ごめんね』と書いたのは何だったの? これからお別れ。いろいろありがとう。でも、ごめんねというのは僕の方だよ? たかしちゃん、さようなら」と遺影に語りかけ、号泣した。
告別式は三木さんの師匠で作曲家の船村徹が葬儀委員長を務め、歌手の五木ひろしら関係者700人が参列。棺には愛犬・ミルキーや妻の渡辺恵理子さんとの2ショット写真、妹で歌手の黛ジュンのCD、「桜の花よ 泣きなさい」のジャケット写真なども収められた。
三木さんは船村の指南のもと、作曲家を志し、1960年代にデビュー。「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「つぐない」(テレサ・テン)、「もしも明日が…。」(わらべ)など多数の名曲、ヒット曲を生み出した。シングル総売上枚数は1948万枚、これまでにオリコンランキングにランクインした作品数は188作。2005年に紫綬褒章を受章し、日本作曲家協会理事長を務めていた。
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2009/05/20