ORICON NEWS

岡林信康、35年ぶりの日比谷野音ライブについて語る

35年ぶりに日比谷野音ライヴ「狂い咲き」に向けて

 ご本人は気を悪くされるかもしれないが、あえて書くと…。伝説的存在だ。デビュー40周年を迎えた岡林信康。そして、あの伝説のコンサート『岡林信康自作自演 狂い咲き』が35年ぶりに帰ってくる。『御歌囃子信康 狂い咲き2007』として。場所は同じ日比谷野外音楽堂。その節目に伝説的足跡を振り返っていただいた。語られる、「友よ」への思い、「山谷ブルース」秘話、ボブ・ディランへの尊敬。その真意は。

71年「狂い咲きコンサート」では引退の覚悟があった

──『狂い咲きコンサート』は、オリコン・ランキングをフォークソングが席捲する直前の71年。それから約2年の隠遁生活へという経緯でしたが。当時は、引退をお考えだったのでしょうか。
岡林 当時、“フォークの神様”とか言われたけど。はっぴいえんどと一緒にやると、フォーク歌手がなんでロックなんだと騒がれるし。たまたまアコースティックギターの弾き語りが受けたけど、新しい曲を作っていると、それだけでは収まらない。音楽的冒険心も満たしたいわけだから。それのできない窮屈さに辟易としたというのかな。苛立ちもあったし。だから、辞める覚悟はしてたよ。
 
岡林信康
プロフィール おかばやしのぶやす
1946年生まれ。大学在学中より音楽活動を開始、68年「山野ブルース」でデビュー。当時“フォークの神様”と呼ばれフォークシーンで絶大な人気を誇る。その後、ロックへ進み、71年7月の『狂い咲きコンサート』、8月『中津川フォークジャンボリー』を最後にシーンから姿を消す。日本の和のリズム洋のメロディを乗せた「エンヤトット」ミュージックを創出し、90年『ベアナックルミュージック』を発表。デビュー40周年にあたる07年から08年にかけて精力的にコンサート活動を展開する。


──「友よ」の波紋も影響していましたか。
岡林 それもないとは言えんね。当時の左翼運動のテーマソングになったかと思ったら、片や自衛隊の駐屯地でも歌われていたらしいから。で、作った本人に“お前は(左か右か)どっちだ”と詰め寄られても。挙句の果てには、岡林とはこういう人間だと、勝手に決めつけられていく怖さもあったね。あの頃、歌だけじゃなく、映画も演劇も既成の枠では捉えられないものが次々に現れていたわけで。政治運動も然り。ベ平連のようなものが出てきたし。そうした新しい運動をやるのは新しい人達だから、「がんばろう」は似合わない。そこにたまたま俺の歌があったんちゃうかな(笑)。僕らが歌い始め、歌う場所もままならない頃、左翼がかった牧師さんが礼拝堂を提供してくれたりしたから。そういう場所で歌いながら、広まって行ったから。左的運動と結びつきやすい場所にいたことは確かやけど。

──当時の岡林さんが所属されていたURCは、日本で最初に成功したインディーズレーベルと言えますね。
岡林 すべてが手探りだったね。ただ、自分達が原盤を作り、それをレコード会社に持ち込むなんてことをやったのは、(URCが)初めてちゃう? 先見の明がある人間がおった証明やけど。でも、良かったのか悪かったのか、俺は金を握ってないで。印税の何たるかも知らんかった。当時の金で8000万円以上が未払いになってたし。名前のわりに潤ってないね(笑)。ただ、20歳そこそのガキが、そんな大金を手にしたら、ろくなことにはなってなかっただろうな。

岡林信康の辞書に「ほどほど」の文字はない

──岡林信康の足跡を振り返ると、常に現在地に違和感を覚えているような気がしてなりませんが。大学神学部中退も、フォークの神様と奉られたときも、音楽的変遷も。
岡林 違和感があるから動くわけじゃなくて。それまでとは違う何かが出てくるわけ、自分の中から。どうしようなく。そうすると、それまでいた場所では収まらなくなるわけやな。たとえばフォークからロックになったときも、演歌のアルバム『うつし絵』(75年)を作ったときもそうだったし。

──あの演歌アルバムには、さすがに固まりました(笑)。
岡林 びっくりしたやろ。

──賛否両論あるにしても、あれほど固まる経験をさせてくれるアーティストは、そうそういないですし。冷静に振り返ると、「無用ノ介」の岡林バージョンは、ある意味演歌的なわけで…。
岡林 なるほどね。「山谷ブルース」も「チューリップのアップリケ」も、そういうものだと言えば、そういうものだしな。森進一も八代亜紀も「山谷ブルース」を歌ってるわけや。だから、俺の中には、初期から演歌的要素はあったとも言えるし。それを強調しても不思議じゃないんやけど。

──でも、“ほどほど”という言葉は、岡林信康の辞書にはないようですね。窮屈になったら身を消す、演歌をやるなら「青い月夜の散歩道」までやると。
岡林 それはあるね。もう嫌になるまでやらないと、気が済まない。興味を持ったものを突き詰めたがるのは、子供の頃からの性分ちゃうかな。だけど、突き詰める到達点は自分にしかわからへんからね。親でも友達でも、どうしていきなり放り出すんだと思ったやろうね。演歌にしても、アルバムを1枚作り、美空ひばりさんとも一緒に曲を作ったけど、これは俺の一部ではあるが、今の俺のすべてを表現できんと思った瞬間、次の場所を目指すわけや。それは捨てるのとは違うよ。この前、何十年かぶりに、『うつし絵』を聴いたけど、あれは29歳の歌ちゃうで。

──それを言ったら、『金色のライオン』(73年)収録曲も、26歳とは思えません。
岡林 歌を書くとは、飯もろくに食わず、夜と昼がひっくり返ったような生活の中で、出てくるものを書き留める行為やから。何事にも縛られない深いところからひょっこり出てくるものちゃうかな。だから、俺の26歳だの、29歳だのといった年齢を軽々と超えるよな。

──『金色のライオン』収録曲「あの娘と遠くまで」の“あのラッパ吹きの…”という下りは、名作だと思いますが。
岡林 フォークの神様だとか誉めそやす連中への反発もあったね。と、意識的ではないにしろ、聖書では、ホラ吹きをラッパ吹きみたいな言い方をすることもあるし。

──『黙示録』のそれは、禍をもたらす輩だそうですし。
岡林 そうしたものの無意識の影響はあるよ。父親が牧師で賛美歌を聴いて育ったから、自分の作る歌が賛美歌の影響を受けていることは、すごく自覚しているし。クラシックの声楽をやっている姉も言うとったよ、“あんたは賛美歌の影響を受けた初めての歌手や”と。そのせいかもしれないけど、演歌は苦手なはずの姉が「山谷ブルース」を嫌わない。あれは外国の歌曲に似ているからと。俺と同年輩の人でも、大学のグリークラブ時代、あれと同じメロディを歌ったと言うとったよ。ドイツの歌曲らしいね。「友よ」にしても賛美歌やと思うよ。

つづきを読む→ 『狂い咲き2007』は、35年前と同じ舞台でも、心境は正反対
      
タグ

    オリコントピックス

    あなたにおすすめの記事

    メニューを閉じる

     を検索