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相川七瀬、春から大学生に 高卒認定経て45歳で合格

 1995年、約40万枚を売り上げたシングル「夢見る少女じゃいられない」で鮮烈なデビューを飾って以降、数多くのヒット曲を世に送り出し、女性ロックアーティストとして揺るぎないポジションを築いてきた相川七瀬。そんな彼女が、デビュー25周年を迎える今年、國學院大學神道文化学部に合格した。結婚・子育てを経ても精力的にライブを行い、歌手として、母として、人生に確かな足跡を残しているなか、なぜ今「学びたい」意欲に燃えているのか。45歳にして春から大学生になる相川に真意を聞いた。

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■“祭り”を通じ「地域活性に携りたい」 受験を決意した動機

――大学ご入学おめでとうございます! まずは、なぜ今、大学受験に挑戦されたのか、聞かせてください。

【相川】10年近く、種子島と対馬と岡山の3箇所だけに残る「赤米神事」を守り、伝承する大使をやらせてもらっているのですが、その活動を通じて、もう一歩踏み込んで、学術的に神事に関わる勉強をしてみたいと思い始めたのがきっかけでした。私は歌手で、発信することが仕事なので、勉強することで、もっと私のメッセージが重みを持ってみなさんに伝わるんじゃないかと思ったんです。

――大学で学ぶことは歌手活動にもつながっているのですね。

【相川】2016年から、岡山で「赤米フェスタ」という音楽フェスをやらせてもらっているんですが、やっぱり自分の活動は、歌にひもづかないことには意味がないと思っていて。ですから、大学で学ぶことも決して歌から離れてはいなくて、歌を一層ふくよかにしていくための基礎作りの一つとも考えています。神事で行われる神楽(かぐら)が日本の芸能の発祥だとしたら、今の私の仕事につながっている部分もありますしね。

――もともと、神事や祭事に興味があったのですか?

【相川】家が神社の氏子をしていた関係もあって、小さい頃から神社やお祭りが大好きで、お祭りに集まる人たちなど、民俗学的なことにもすごく興味がありました。

 赤米の大使をやることになったのも、2011年に日韓友好のライブで訪れた対馬がきっかけでした。何百年と続く赤い稲穂のお祭りがあると知り、お話が聞きたくて、赤米を育てている方のお宅に伺いました。現在、赤米を育てているのはその方お一人で、継承者がいないために、赤米の神事が存続の危機にあると聞き、何か私にお手伝いできることはないかと考えこの活動が始まりました。

――大学では具体的にどのようなことを学びたいですか?

【相川】祭りを行っている地域は人口減少のカーブが緩やかな一方、祭りをやめた地域は急激な下降線をたどる傾向があるんです。私は祭りを通して地域活性に携わっていきたいと思っているので、そういったデータをまとめるとともに、なぜ、その地域の祭りは続いたのか、あるいは続かなかったのかということも研究テーマにして、自分の次の活動の起爆剤にできたらと思っています。

 あと、古事記や日本書紀をグッと掘り下げることって(これまで)なかなかできなかったので、それも学生のうちにやってみたいですね。

■高卒認定取得し大学受験 「いくつになっても勉強は続く」子どもに教え、教えられ

――大学受験は、どのくらい前から準備を始めたのですか?

【相川】大学に行きたいと思い始めてから、ずいぶん時間がかかりましたね。というのも、私は高校を中退して上京したので、大学受験のためには、まず、高卒認定を取らなければならなかったんです。

 でも、子育てや子供の受験などがあったりして、自分にそんなに時間がさけなかった。それでもコツコツ積み上げるしかないと思って資格を取るための準備をしました。毎朝、子供たちが出かけてから勉強するということを日課にしていましたが、高卒認定を取って、大学受験までかかった時間はおおよそ2年半ぐらいでしょうか。

――家事と子育て、仕事をしながらの受験は大変だったのではないですか?

【相川】結婚して子供を持ってからは、自分の一番の仕事は“母親であること”と考えて、時間を組んできました。家庭にひずみが生じれば、自分にダメージがきて、結果、相川七瀬という仕事にも影響があると思っていたので、母親でいる事を一番の私の軸にしようと考えてきました。

 勉強に関しても、その考えでうまくペース配分していたつもりですが、いつのまにかみんなで一緒にリビングで勉強するようになりました。特に高卒認定は、海外に留学中の長男と猛烈に勉強しました。彼には、数学を随分教えてもらいお世話になりました。(笑)一緒に勉強して、一緒に試験会場に行って、受験生ならではの悩みとか、本来なら親子でシェアできないことも語り合えて、すごく貴重な経験ができました。

 そして何より、いくつになっても勉強は始められるし、いくつになっても勉強は続く。そういうことを3人の子供たちに見せられるのは、すごく価値のあることだなと思っています。子供たちと一緒に勉強することで、一つの目標を持って越えていくことの大事さや、年齢に合った進化をしていくことなど、私もまた、いろいろなことを彼らから教えられています。

――高校を中退されたことも、今、学ぶことを選んだ原動力になっていたのでしょうか。

【相川】高校をやめて上京する決心が当時なければ歌手にはなっていないので、高校中退は自分にとって必要なプロセスだったと思っています。でも、みんなが10代にやってきたことをすっ飛ばして社会人になって仕事をしてきて、なんとなく、その部分を取り戻したいという夢はずっとあった気がします。

 ただ、20代も30代も飛び込んでいく勇気が持てなかった。その年代はまだ欲があるから、もっと認められたい、もっと売れたい、立ち止まったら負けとか、振り返ったら負けみたいなところがあったんですよね。でも、40代に入って欲が少しマイルドになったというか。消費していくのではなくて、日々を味わって昇華していきたいと思うようになって。それが自分の歌にも人生にも豊かさを与えるようになってきたかな、と感じているんですけど、大学受験についても、50歳になるまでにその部分をコンプリートしたいから、今、ここでいくしかない!って思ったんです。

■「老いている場合じゃないぞ(笑)」大人が夢を宣言する勇気

――大学1年時は、デビュー25周年の年と重なりますね。

【相川】デビューからプロデュースしていただいた織田哲郎さんと、これまで一度もツアーを一緒にまわったことがないので、やろうか!って話しているんですよ。

 先日、織田さんに会ったとき、今後の相川七瀬は「どんどん尖っていって、どんどんパンクになっていくのがいいと思う。落ち着くのだけはつまらないな」と言われたんです。私にはその発想はなかった(笑)。若い頃と大人になってからの尖り方は違うと思うし、その言葉を一つのヒントに、大人のパンクロックを模索したいですね。

 25周年に向かって今は、新しい曲のプリプロに入っています。織田さんとの新曲もこのタイミングで叶ったらいいなと思っています。過去、私が書いた歌詞を織田さんはたくさんキープしてくれているので、その中から50代になっても歌える普遍的なバラードを作ってほしいとお願いしました。出来るか出来ないかは織田さん頼みですが(笑)。

 これから大学でも、若い人にもまれて、フレッシュな発想にふれて、老いている場合じゃないぞって(笑)。大学生活を送った先、5年後は30周年を迎えるので、その時に自分がどうなっているのか、ちょっといい意味でわかんないなって、ワクワクしています。

――最後にファンをはじめ、仕事や子育てを頑張られている同世代の女性たちにメッセージをお願いします。

【相川】私、数年前に幼なじみを看取ったんです。私と同じような年頃の子どもが2人いて、バリバリ働いていた。「自分には大きな夢があって、それを叶えるために頑張ってる」って言っていた。夢って子どもが抱くものと思っていた私は、彼女の言葉にハッとさせられました。亡くなった後、自分はこれからどういうふうに50歳を迎えるかを考えたとき、彼女に恥じないような、夢に向かっていける人間になりたいって思ったんです。

 歳をとると周りに夢を宣言するのってすごく勇気がいります。私自身、合格して書類が届くまで、家族と家庭教師の先生にしか大学受験の話を打ち明けられませんでした。でも、今、改めて、夢を持つことってすごく大事だと感じています。みんなにも小さくてもいいから何か夢を持ってほしいなって思います。いくつになっても人は輝ける。リミットを決めているのは自分であって、他人じゃない。夢を持って、自分の命をキラキラ輝かせてほしいなって思います。

(ライター・河上いつ子)

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