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【連載4】逆境に強いSMAP ライブで見せた成長と結束の物語

 様々な角度からSMAPに迫る連載第4弾。今回は、彼らのホームともいうべきSMAPのライブについて綴りたい。バラエティ、ドラマ、映画と、彼らが活躍する場所は数多くあるが、5人の真実を目の当たりにできるのは、やはりライブの場である。彼らはいかにして逆境を乗り越え、その生き様を見せてきたのか。

SMAPは8月14日、年内の解散を発表。9月9日にはデビュー25周年を迎えた

SMAPは8月14日、年内の解散を発表。9月9日にはデビュー25周年を迎えた

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◆初の海外公演、北京のライブでSMAPを待っていたのは――

 5年前の9月16日、SMAPは北京にいた。

 初めての海外公演は、北京オリンピックのサッカー競技でも使用された北京工人体育場。あとになって、『プロフェッショナル 仕事の流儀 SMAPスペシャル』NHK総合)でも、ハプニング続きの舞台裏が放送されていたけれど、実際に会場に足を運んでみると、そのスタジアムの不気味なほどの無機質さと、スタンドの客の入っていないスペースの多さに呆然とした。

 陸上競技用トラックの周りの低い位置のスタンドには一切客を入れておらず、私が入ったスタンド1階はほぼ埋まっていたとはいえ、2階はスタンドから向かって正面に何千人か、左右にもやはり何千人かの人の塊があったけれど、ぜいぜい全体の3分の1程度しか埋まっていなかった。用意された席が全て埋まっていたアリーナでさえ、ステージとの距離がかなり離れていたせいか、どこか閑散とした空気が漂っていたほどだ。

 それまで、SMAPのコンサートといえば超満員の会場しか見たことがなかった。24年前、92年の夏のツアーで名古屋の(旧)レインボーホールの2階席にはほとんど客が入っていなかったというエピソードは有名だが、96年の初の東京ドーム公演も、その翌年の横浜スタジアムも、2002年の味の素スタジアムも、2005年の国立霞ヶ丘競技場も日産スタジアムも、どこもかしこも会場はファンで埋め尽くされていた。

 なのに、中国の首都北京で、スタジアムでのライブで、国賓級の扱いをうけながら、この客の入りはいったいどういうことだろう。その会場を見て私は困惑し、狼狽し、落胆した。この会場を見たら、メンバーは何と思うだろうか。平常心を保てるのだろうか。普段通りにパフォーマンスできるんだろうか。いつもの彼らの“熱”は、この場所まで届くんだろうか……。それまで、SMAPのライブ前には感じたことのない様々な不安が、脳裏をかすめた。

 ところが、いざステージが始まってみると、私のそんな心配はまったくの杞憂に終わった。いやむしろこれまで見てきた中で、あのステージでの5人ほど、笑顔や瞳の輝きが爆発的だったことはないかもしれない。まるで、宇宙の暗闇の中で燦然と輝く5つの巨星を見るような感覚。スターは、どこにいても、誰が見ても、紛れもないスターなのだと思った。

◆解散説頻出の90年代後半、ライブで語った「SMAPはずっと続けていきたい」

 SMAPは逆境に強い。

 思えば、超満員のコンサートでさえ、彼らにとっては逆境の連続だったのかもしれない。96年の東京ドーム公演は、森且行の脱退直後。それまでの歌割りにも、ダンスのフォーメーションにも変更を余儀なくされながら、彼らは見事に森の抜けた穴を埋めた。歌もダンスも安定感抜群だった森を失ったことで、あらためて5人の歌とダンスと、チームに対する意識が高まったように感じた。

 その翌年のツアー『ス』では、本編ラストの曲「それじゃまた」のソロで香取慎吾が涙で声を詰まらせ、アンコールでメンバー全員からの挨拶があった。そこで稲垣吾郎は、「約1年ぶりのライブですけれど、なんだかんだ言って、帰ってくるところはここなんじゃないかと思ってます」と語っていた。

 のちに木村拓哉が、「2年に1度は解散説が出た」と振り返るのが90年代後半のこの時期である。99年の『LIVE BIRDMAN』のオーラスでは、中居正広が、「おじいちゃんになってもSMAPをやっていてもいいのかなと、最近強く思うようになりました。皆さんがこうやって会場に足を運んでくれる限り、SMAPはずっとずっと続けていきたいと思います」と挨拶している。アンコールの「オリジナル スマイル」のイントロでは、花道を中居と木村が肩を抱きながら駆け抜ける映像もあったりと、ライブDVDは貴重映像の宝庫。楽曲も、ロック、ファンク、ポップス、バラード、ダンスチューン、ラップ、メンバー紹介ソングとバラエティに富んでいて、単独ライブにしてフェス的な多様性を感じさせる。それだけでなく、彼らが自分たちの音楽で、従来のアイドルの殻を破ったことを証明するほどの完成度の高さもあった。このライブを通して、気づいた。SMAPのライブは、ただ音楽を楽しみ、メンバーの姿を近くで見られることに興奮するだけじゃない。メンバーの“成長と結束の物語”を目撃し、その熱狂と歓喜と幸福の渦の中に巻き込まれる場所なのだと。SMAPのライブには、ワクワクするような音楽だけじゃなく、壮大な彼らのストーリーがそこに映し出されるのだと。

◆稲垣復帰後のステージで涙 どんなピンチも繋いだ手は離さず

 この翌年の2000年、木村拓哉が結婚し、2001年、稲垣吾郎が活動を自粛した。

 稲垣が復帰したツアーの映像を収めた『Smap! Tour! 2002!』にも、メンバーの感動的な挨拶が残っている。
 草なぎ剛は、「僕が輝いていられるのは、皆さんと、SMAPを支えてくれているスタッフの方、何よりもメンバーのおかげだと思います」と、精一杯の感謝を、その言葉と表情にたぎらせた。香取は、「去年は、コンサートの時吾郎ちゃんがいなくて、いっぱい“ふざけんな!”と思いました。一人抜けて、4人でやってる時すごく寂しかった。今回、5人で最後まで走り抜けることができて、やっぱり僕はSMAPのことが好きなんだなと思いました。……コンサート、楽しいですね!」と言って、心からの笑顔を見せた。「去年、吾郎ちゃんがああいう形でいなくなって、SMAPの終わりを、もしかしたら迎えなければいけないんじゃないか。これ以上やっていけないんじゃないかとか、いろいろ考えさせられました」と、ドキッとするような挨拶をしたのは中居だ。夏に始まったライブが終わったのは、11月3日。いつしか、秋も深まっていた。中居は、こんな言葉で、1年ぶりの5人でのライブの挨拶を締めくくった。「もっともっとたくさん会いたいって気持ちが、強いです。5人で、必ず5人で、またライブができればいいと思います」。この挨拶の後、5人で、「BEST FRIEND」をフルコーラスで歌った。1番のAメロでもう中居が泣いて、2番で草なぎが泣いて、ずっと遠い目をしていた木村も、3番で感極まって声を詰まらせた。

 何度か怪我にも見舞われた。06年の『Pop! Up! SMAP!』ツアーでは、中居の肋骨にヒビが入ったこともあったし、公演中に肉離れを起こしたこともあった。08年の『super.modern.artistic.performance tour』では、初日に香取がステージの窪みに落下。右膝を縫う怪我を負った。そんなときは、常にメンバーが全力でサポートした。どんなピンチのときでも、繋いでいた手を離そうとはしなかった。

◆逆境続きの彼らが“SMAPという人生”を見せた、嘘偽りない場所

 ライブには、嘘がない。ファンの目の前で、直接歌って、直接笑って、直接手を振って、直接話す。これまでSMAPは、どんな逆境の時も、ファンの前で、正直な気持ちを、直接伝えてきてくれた。

 何の因果か、デビューから逆境続きの彼らだけれど、ライブで会うことさえできれば、私たちは彼らの笑顔を、涙を、その言葉を信じることができた。たとえ、“コンサート”という形でなくても、それが『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)内の企画であっても、リアルタイムで目撃できる彼らのライブには、必ず力強いメッセージがあった。「今、この曲を選んでくれたんだ」「この曲をこんな風に歌ってくれたんだ」と、その時々の魅せ方があることに気づかされた。いつも、そこに一切の嘘偽りがないことを確信することができた。

 テレビのバラエティで個性を発揮するSMAPも好きだ。ドラマや映画、舞台で見るメンバーも魅力的だ。ラジオでの素直な語り口も、雑誌に寄せるコメントも、何もかもがプロとしての誠実さに満ちている。でも、やはり、私たちはライブのSMAPが一番好きだ。歌で綴られる“SMAPという人生”がそこにあるから。

 9月9日のデビュー記念日を過ぎて、空が秋めいてきた。ふと、5年前の北京のライブのことを思い出す。あの時の彼らの爆発力は、野球に例えるなら逆転満塁ホームラン。どんな逆境もものともしないのが彼ら5人のような気がして、1ヶ月前に発表されたことが、まだ、SMAPストーリーの新たなる展開の序章であるような気がしてならない。SMAPのファンは、つくづく諦めが悪い。
(文/菊地陽子)

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