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小橋賢児、栄光と挫折……紆余曲折経てのいま

 子役時代より俳優として活躍し、ドラマ『人間・失格』(1994年TBS系)、映画『スワロウテイル』(96年)など多くのヒット作品に出演しながら、2007年に芸能活動を休止し渡米した小橋賢児。帰国後は、映画監督としてデビューし、現在は世界最大級のイベント『ULTRA MUSIC FESTIVAL』のアジア上陸の立役者として、クリエイティブディレクターを務める。華々しい舞台の裏側での葛藤、栄光と挫折、出会いと別れ、生と死の間……相反する様々な経験をしてきた小橋が、これまでの活動から現在について語った。

◆自分自身をごまかしきれなくなり渡米

――俳優として活躍しているなか、2007年、突如渡米され、すべての活動をストップされましたが、その理由は何だったんですか?
【小橋】 子供の頃の自分は、後先を考えず、思ったことをそのまま行動に起こしていたんです。そもそも僕が俳優になるきっかけも、バラエティ番組のオーディションに観覧募集と勘違いして応募したことでした(笑)。そのときの衝動がその後の自分へつながっていきました。でも、漠然と自分の30代を想像したときに、今の延長線上で見える未来でしかない、それでいいのかって。自分が気づいてなかった、忘れていた感覚を取り戻したいなという、リハビリのような感覚で旅をはじめました。なかでも26歳のときに行ったネパールでの出会いが衝撃的でしたね。

――ネパールで決定づける出来事があったと。
【小橋】 現地で同い年の男の子と仲良くなって、彼の家に招待してくれたんです。決して裕福とは言えない経済状態の中で、奥さんと娘さんと3人で暮らしていて。あるとき、ふと彼の背中を見ていたら、思わず号泣しちゃって。必死に今を生きようとしている彼を目の当たりにして、自分自身に嘘をついて、今の環境を守っている自分とは比べ物にならないなって。日本に戻ってきたときに、今までだったら自分でごまかしきれていた部分がごまかしきれなくなって。

――自分自身に対して、限界を感じたと。そこからアメリカに行かれたのはなぜ?
【小橋】 そのときの僕は英語を話すことができなくて、まず最低限の生活用語を覚えることだと、アメリカに向かいました。でも、コミュニケーションをとることが目的というよりは、まだ見たことのない世界を知りたい、自分自身の目で感じたいという思いのほうが強かったですね。

――でも、それまで築き上げてきたものを一気に手放すことになるわけですよね。そこに対しての怖さはなかったですか?
【小橋】 なかったですね。とにかく今の状況がいてもたってもいられなかった。渡米する1ヶ月前から友達との連絡も絶って、全てを捨ててアメリカに渡ったものの、正直スッキリサッパリしてきたというよりは、まず目の前の自分を打破したいっていう思いだけでした。

◆20代最後でどん底を経験、実家でほぼ寝たきり状態に

――そんななかで、アメリカではどのように過ごしていたんですか?
【小橋】 2つだけ向こうでやることを決めていたんです。1つ目が、アメリカ人の友達を作って、春休みの間にアメリカを横断すること。2つ目がアメリカ人の友達と英語でケンカができるようになること。あえて日本人がいない冬のボストンを選び、毎日朝の4時に起きて、夜中の2時ぐらいまで徹底的に英語の勉強をしました。

――逃れられない環境をみずから作り、2つの目標を叶えることができたと。
【小橋】 個人レッスンをしてくれていた先生と大学生の男の子と友達になって、3人でメキシコ経由でアメリカ横断しました。そのゴール地点がマイアミで。そのときに偶然『Winter Music conference』が開催されていて。そこで仲良くなったDJに『ULTRA MUSIC FESTIVAL』を教えてもらったことから、世界にはこんな楽しい音楽のイベントがあるんだってことを知り、それを日本の人たちに発信したいという気持ちになりました。

――そして、『ULTRA MUSIC FESTIVAL』のクリエイティブディレクターとして、日本での立ち上げに関わると。
【小橋】 すぐにというわけではないです。仲間と一緒に集まれるリアルな場を作りたいと、最初は300人規模のパーティを企画しました。そうしたら、1000人ぐらい集まって、噂を耳にした企業の人たちが、一緒に面白いことをやりましょうと声をかけてくれるようになり、どんどん規模が拡大していって。

――まさに順風満帆ですね。
【小橋】 かと思いきや、20代最後にして、全てを失ってしまったんです。

――またもや大きな節目が来たと。
【小橋】 日本に戻ってきて、自分で会社を立ち上げ、いろいろチャレンジしたんですが、結局どれも宙ぶらりんなままで。気付いたら貯金は底をつくし、仕事はないし、人間関係もグチャグチャになるわで、もう散々でしたね。それで肝臓を壊してしまい、2ヶ月くらい実家でほぼ寝たきり状態。そんななか、もう一度30代に向けてチャレンジするために、体も心も健康な状態に戻すべきだと、自然の多い茅ヶ崎に引っ越しました。ライフセービングのトレーニングとトレイルランとジムで30歳を迎えるまでの3ケ月間、毎日体を鍛えていました。そして、30歳の誕生日には、自分でプロデュースして、仲間たちを呼んでお台場で誕生日パーティをするまでに回復しました。

◆とにかく今を楽しもうとマインドチェンジしたら、今へと繋がった

――3ケ月間でそこまで回復できたのも、これまでの経験があったからなんでしょうね。
【小橋】 30歳になった瞬間は、ひとりで茅ケ崎の海にいたんですが、砂浜で月を眺めながら、今生きている幸せとありがたさをひしひしと感じて。そこから再びいろんなことが動き出すようになりました。

――2012年には映画『DON’T STOP』で初監督に挑戦しましたが。
【小橋】 高橋歩君という旅人と出会って、彼と彼が出会った人々との旅にフォーカスした映画を純粋に作りたいと思ったんです。だから、映画監督になりたくて映画を作ったというよりは、自分の感動を多くの人たちとシェアすることができたらいいなっていう思いからですね。以前の僕は、高い目標を設定して、そこにたどり着けなかったら挫折して……という繰り返しでした。この頃から後先を考えず、とにかく今を楽しもうとマインドチェンジしていったら、映画やイベントの仕事へ自然とつながっていったんです。

――意識を変化させたことで光明が見えた。
【小橋】 それしか方法がなかったといいますか、自分で何かをしたいと思ったら、自分で考えて行動することが、当たり前になっていました。中学生のときに、欲しいものがあっても、家が借金を背負っていたので買ってもらえるような状況じゃなかった。自分でお金を稼ぐために、新聞配達をしたりと、いつでも未来は変えれることを自分自身で実証させていきました。『ULTRA MUSIC FESTIVAL』が韓国で開催されるときに、海外のフェスにも精通している、日本の面白い人とパートナーを組みたいと、主催者の方から声をかけていただいたことがはじまりでした。

――その『ULTRA JAPAN』も、1年目から大成功を遂げていますが、来年以降の展開はすでに考えていますか?
【小橋】 フェスはもちろん、それ以外でもいろいろ計画しています。今後は、フェスだけが盛り上がるのではなく、東京という街全体が盛り上がっていけたらいいなと思います。

(文:星野彩乃)

小橋賢児(こはし けんじ)
子役時代より俳優として活躍。ドラマ『人間・失格』(1994年 TBS系)、映画『スワロウテイル』(96年)、ドラマ『青の時代』(98年 TBS系)、NHK連続テレビ小説『ちゅらさん』(2001年)など多くのヒット作品に出演しながら、2007年に芸能活動を休止し渡米。帰国後、2012年には、映画『DON'T STOP!』で映画監督デビュー。現在は、世界最大級のエレクトロダンスミュージックフェスティバル『ULTRA MUSIC FESTIVAL』の日本でのクリエイティブディレクターを努める。



関連写真

  • 現在は『ULTRA JAPAN』のクリエイティブディレクターを務める小橋賢児(写真:草刈雅之)
  • 小橋賢児(写真:草刈雅之)
  • 小橋賢児(写真:草刈雅之)
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