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昭和の大ヒットメーカーである作詞家の阿久 悠氏が、8月1日、帰らぬ人となった。享年70才。67年、作詞家としてデビューして以来、幅広いジャンルで数多くのヒット曲を生み出し、それらの作品は今もなお歌い継がれている。本インタビューは、音楽業界誌『オリジナルコンフィデンス』(04年11月22日号)に掲載された記事を抜粋したもの。シングルヒットが求められるなか、ヒットメーカー阿久 悠氏がヒット曲について語る、貴重なインタビューである。
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155.4 |
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1977/12/5 |
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146.0 |
サウスポー |
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1978/3/25 |
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143.5 |
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1975/12/1 |
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120.1 |
ウォンテッド |
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1977/9/5 |
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110.2 |
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1978/6/25 |
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101.8 |
青春時代 |
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1976/8/21 |
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100.0 |
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1977/6/10 |
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95.6 |
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1971/3/5 |
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91.6 |
時の過ぎゆくままに |
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1975/8/21 |
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89.3 |
勝手にしやがれ |
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1977/5/21 |
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――作詞を手がけられるようになったのは、どのようなキッカケからですか?
【阿久】 60年代後半当時、僕はグループサウンズの番組の企画などをたてていました。番組の中で、和製のGSの歌が必要になってきて。レコードになるかどうかはわからないけれど、グループサウンズの曲を書いていたんです。それが、サ・スパイダース「フリフリ」のB面に入っている「モンキー・ダンス」。だから、実は本当のデビュー曲は「モンキー・ダンス」です。それはB面だったから、僕のキャリアの中から削除したんですけど。当時は専属作家の時代でしたから、GSが流行って大ブームにならない限り、外部の人間が作詞するということはできなかったと思います。 それはビートルズのおかげです。ビートルズがブームにならない限りは、日本にGSブームはないし、専属制度も壊れなかったわけですから。自分の性格からいって、僕はおそらく専属にしてもらうための努力はしなかっただろうと思いますから、作詞家になっていなかったと思います。ただ、歌にはすごく興味があった。僕は子供のときから歌ったことがなくて、今こんな歌が流行っているとか、わりとデータ的なものが好きで、流行大賞風に今年はこういう歌が流行るのか、という興味の持ち方はしていて、まあ向いているといえば向いていましたね。
――作詞家という仕事の魅力は、どこにありましたか。
【阿久】 「白い蝶のサンバ」が売れたときに、あんまりお金が入るのでびっくりしました。それまで僕は週7本ぐらい番組の企画構成をしていました。だから変な言い方ですけど、放送作家の中では超売れっ子で、けっこう稼いでいる気でいたんです。でも、毎日徹夜続きでやっていての放送作家の収入と、原稿用紙2枚が稼ぎ出したお金とでは桁が違っていました。お金の部分も大きいですが、それよりもそれまで毎日のように構成作家としてクレジットが出ているにも関わらず、阿久 悠という名前を知っている人は世の中にほとんどいなかった。ところが、ヒット曲を一つ出した途端、コンテスト番組の審査員をはじめ仕事の依頼がくるようになった。書いたものが世の中に広まっていくスピード。これはもう歌を超えるものはないだろうと思います。それがやはり一つの魅力でした。それと、ちょうど70年にかかっているときですから、今までの流行歌と明らかに形が変わってきた。綿々と続いてきた日本的メンタリティーだけの歌ではない。それはビートルズやら何やらの影響ですけどね。もうちょっと乾いたというか、社会性があったり、あるいはもっと客観的であったりするものが、どうやら受け入れられそうだっていう雰囲気がありました。それだったらたぶん書けるだろうなと思ったからです。それでも、早めに切り上げて小説を書きたいと思っていたんですよ。そのうち、すごく売れたものですから、逃げられなくなった。でも、よかったと思っています。あれだけ、自分が思ったこと、思いついたことが世の中に流せるっていうことは、ちょっとありえないことだと思いますから。
――「ヒット曲」の概念とはどのようなものでしょうか。
【阿久】 その歌が売れた時代の風景が見えるということが絶対条件だと思います。「あの歌が流行っていたあの秋の東京は」というのが見える。そういうものですよ、ヒット曲というのは。だから、僕が時代時代というのは、時代そのものを歌うのではなくて、その時代の中でどう過ごしたか、なぜその時代の中だから選ばれたかっていうことです。だから、作詞家が「何年何月にこんなことがありまして」という、いかにも時代らしい詞を作ったって、それはダメなんですよ。ただ、ああいう気分がいいねとか、ああいう話をしていたね、というのは、まちがいなく平成16年夏以降に違いないね、というようなことが、ある種歌から匂いとしてわかるというのが必須条件だと思います。僕はいくらか時代を意識しすぎるところはあるかもしれないですけど、一方で、「時代なんか関係ない、歌は心よ」と言われる。しかし、僕には心だけ突出しているとは思えない。同じことが、時代の背景が違うことによって悲しく思えたり悲しく思えなかったりするわけです。同じ別れを表現するのでも、蒸気機関車での別れるときと、新幹線で別れるときの駅での悲しみ方の表現は違うわけです。だからそのときの背景というものは、時代を意識していかなければならない。
――今、シングルヒットが求められていますが、シングルの役割とは何でしょうか。
【阿久】 シングルは機関車の役目をするんです。また、シングルという盤はある種のステージだと思っています。シングルというのは知恵を絞って狙い打ちしますよね。何月頃にこれを出す、この時期だったらこういうことが世の中は起こっているはずだから、これは納得してくれるに違いないとかね。これに対する飢餓感も生まれている時代だから、ここを狙おうよということもあります。本気で知恵を絞りあう。それは、自分が書こうとしている歌詞のこと、歌のことと同時に、同時期に発売されるであろうライバルを意識しながら作っていくことでもあったのです。
(音楽業界誌『オリジナルコンフィデンス』(04年11月22日号)より抜粋)
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