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大いなる使命と望郷と… 奈良・唐招提寺の心は1200年の時を超えて


寺社を中心とした世界遺産「古都奈良の文化財」。その中の一つが奈良市西ノ京にある「唐招提寺」です。人々の多くが南大門から入ったとたん雄大な大屋根をもつ金堂に惹きつけられ、まるで導かれるようにエンタシス形をした太い柱の間へと進んでいきます。1200年も前の人々の心を今も大切に守り、作家井上靖氏が小説の中で「天平の甍」と謳った唐招提寺。国宝の伽藍と豊かな自然に包まれた静寂の寺をご紹介していきましょう。

緑麗しい、西ノ京の「み寺」

写真:万葉 りえ

唐招提寺があるのは、奈良の西ノ京になります。東大寺や興福寺を観光するのに利用する人が多い奈良駅からでも、近鉄を利用してわずか4駅という近さです。それなのに奈良駅から東大寺周辺の混雑に比べたら、薬師寺もある「西ノ京」は大変穏やか。また、一つ手前の「尼ヶ辻」の駅で降りれば大きな濠に囲まれた垂仁天皇陵のそばを歩くので、奈良らしい雰囲気も味わっていただけるでしょう。
ー若葉して 御めのしずく ぬぐはばやー
これは、松尾芭蕉が唐招提寺を訪れた際に詠ったという有名な句。かつて平城京の中心だったとは思えないほど、唐招提寺は「若葉」という言葉が素直に入ってくる深い自然に包まれています。ご存知の方も多いでしょう。この寺を創建したのは日本に初めて仏教の正式な戒律を伝えた鑑真和上で、それは759(天平宝字3)年のことでした。
唐へ留学する僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)に託されたのは、日本の仏法を正しいものにするために正式な戒律を伝えてくれる師を招請することでした。二人は広い唐の中で仏法を学びながら、答えてくれる師を探し回ります。揚州へと入ったのは二人が遣唐使船で唐へ渡ってからすでに10年を過ぎた頃のこと。この地で多くの弟子を育てていた鑑真に弟子の僧の派遣を願い出たのでした。

命を賭した日本への道

写真:万葉 りえ

受戒した者が4万人ともいう鑑真の弟子。しかしその中の誰一人として日本行きを申し出る者はなし。そして鑑真の口から出た言葉が「・・・誰もゆかぬのなら 我がゆかん」だったのです。
しかし当時の唐の国では海外へ勝手に出ていくことは禁止。まして国の宝である高僧ならばなおさらです。743年に一度目の渡航の計画が始まるのですが、密告されて禁固を受けたり、揚子江を出たとたんに船が難破したり、ようやく出航できても大波ではるか南へと流されてしまい揚州へ戻ることさえ困難な状況に陥ったり…苦難と絶望が相次いで一行の前に立ちはだかったのでした。それだけでなく途中で鑑真は愛弟子を亡くしたうえ、自らも病で光を失ったのです。
日本側も752年に遣唐使として渡った藤原清河・大伴古麻呂らが玄宗皇帝に鑑真一行の渡日を願い出ます。しかしこの時も条件が整いませんでした。そこで藤原氏らの協力で再度密航が計画されます。ひそかに移動した先は、蘇州で待つ遣唐使船。そして、蘇州から沖縄を経て鹿児島へと船は進んだのでした。
ようやく鑑真和上一行が平城京に入ったのは754年。最初の渡航の計画から12年もの年月が過ぎており、様々な困難を乗り越えての日本到着だったのです。

人々を迎える 風格ある金堂

写真:万葉 りえ

平城京では東大寺を造って10年以上の時が経っていたのですが、和上を迎えてようやく大仏殿前に設けた戒壇で聖武天皇をはじめとして多くの僧らに戒律が授けられたのでした。
和上は5年ほど東大寺戒壇院の近くですごしたのち、新田部親王の旧地を賜って私寺の戒院をつくります。当初は「唐律招提」称していたのですが、勅額を受けて「唐招提寺」となりました。創建時は今の様子とは大きく異なり、講堂や経蔵などだけだったといいます。
和上の弟子の時代になってからも伽藍は整えられていきます。南大門をくぐったとたん目にするのは、圧倒的な存在感を放つ大屋根の両端に巨大な鴟尾(しび)を乗せた金堂です。奈良時代に建てられたものとしては唯一の遺構だというこの金堂。まずは1200年の時を超えた風格をゆっくりと前へ進みながら感じていただきたいと思います。

写真:万葉 りえ

一見等間隔に見える柱ですが、じつは中央部がやや広く、そして両端へいくにしたがいわずかに狭めらた間隔になっています。しかもそれぞれの柱も中央をやや太くするというエンタシスという形になっており、天平の時代にすでに風格ある趣を備えて造られていたのです。
金堂の中央に座られているのはおよそ千体の化仏を背にした大きな廬舎那仏の像。その両側には薬師如来と千手観音が立たれて、おおらかな空間に人々を余さず救うという大きな心が満ちています。

平城京の唯一の遺構・講堂

写真:万葉 りえ

金堂の後ろ側に建つ講堂も、金堂と同じく国宝に指定されています。この建物は平城京の中心にあった建物の一つ「朝集殿」を移してきたもので、現存する平城京のたった一つの遺構なのです。天平の時代の人々が立った空間に、同じように立つ不思議さ。
講堂の本尊は弥勒如来。光背にはたくさんの飛天が飛び交い、楽を奏でています。金色に輝く姿を仰ぎ見ながら天上の音楽を想像してみてください。
敷地内には校倉(あぜくら)作りの経蔵(新田部親王宅の倉を転用したもの・国宝)や鐘楼が建っているのですが、講堂から奥へ進むとさらに緑が濃くなっていきます。

揚州へ1200年ぶりの里帰り

写真:万葉 りえ

東西にのびる砂利道を東に進むと、土塀に囲まれた場所へ至ります。唐招提寺という空間に入っただけでも厳かさを感じていたと思いますが、ここまで来るとさらに大きく神聖な空気に包まれているのを感じていただけるでしょう。
この門の奥にあるのが鑑真和上の廟。奈良時代の名僧のなかでどこに眠られているのかはっきり分かっているのは稀だといいます。写真撮影が禁止されているわけではありませんが、多くの方が和上の遺徳を思い廟を静かにあとにされます。
寺内では桜や菖蒲、萩などが緑に季節の彩を添えます。そのなかでご覧いただいているのは瓊花(けいか)という花です。この花は隋の煬帝が大変気に入っていたため、それ以来門外不出となっていたもの。しかし和上の故郷である揚州の花なので、特別なはからいで日本へ渡ってきたのです。

写真:万葉 りえ

毎年5月頃、和上の御廟の傍などでまぶしいほどの白く可憐な花を開きます。使命のために命をかけて日本へと渡ってくれた和上とその弟子たち。その気持ちにこたえようとする心は1200年たった今も変わることがないのです。
じつは1964年に行われた和上1200年忌法要で、唐招提寺では和上(像)を何とか里帰りさせてあげたいという話が持ち上がったのでした。しかし中国では文化大革命などが起こってしまいます。その間、唐招提寺の長老たちは悲願を胸にじっと待ち続けたのでした。
様々な困難を乗り越え、ようやく里帰りできたのは1980年のこと。中国では多くの人が沿道で和上を出迎え、3会場で53万人もの人々が来場したと記録されています。
日本からの長旅の後中国の大明寺で荷ほどきされた和上像。日本から付き添ってきた長老がその時見たのは、かすかにほほ笑んだ和上のお顔だったといいます。

唐招提寺の基本情報

和上の亡くなる前の姿を写し取ったといわれている鑑真和上座像(国宝)は、御影堂(みえどう)に安置されています。現在講堂の奥にある建物でも複製品がみられるようになっているのですが、本物は6月の開山忌に特別拝観できます。御影堂内では、奇しくも12年の歳月をかけて東山魁夷(ひがしやまかいい)画伯が描いた和上の故郷揚州の景色の中で和上の像にお会いできます。
唐招提寺に行けば、今も、静寂の中で天平の時代と変わらぬ大きな思いが守られていることを感じていただけるでしょう。
住所:奈良市五条町13-46
電話番号:0742-33-7900
アクセス:近鉄西ノ京駅から700メートル
拝観時間:8:30〜17:00

■関連MEMO
唐招提寺
http://www.toshodaiji.jp/about.html

【トラベルjpナビゲーター】
万葉 りえ

提供元:トラベルjp 旅行ガイド

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